英雄再び
18話
薄暗く、舗装もされていないぬかるみだらけの通りを、四頭の馬に引かれた馬車がものすごい勢いで駆け抜けてゆく。大きな車輪が汚物混じりの黒っぽい泥を跳ね上げ、歩行者たちはそれを避けるために一目散にその場から逃げ出す。
「気をつけろ! 馬車が来るぞ!」
狭い街路のあちこちで人々が叫び、まだ危険に気づいていない人に注意を促す。この街ではよく目にする日常の一コマだ。いつもならこのまま何事もなく馬車は通り過ぎていくのだが、この日は悲劇が起こった。悲鳴とともに、何かが潰れるような鈍い音がし、続いて甲高い馬のいななきと、怒鳴り声が通りに響いた。
「おい! 婆さん大丈夫か! しっかりしろ!」
「早く馬車をどけろイカレ野郎! よくもポリーヌの婆さんをひきやがったな!」
立ち往生している馬車に駆け寄ってきた数人の男たちが、車輪の下敷きになっている老婆を助け起こし、横柄な態度で被っている三角帽のつばをいじる御者を睨みつける。男の腕に抱かれた老婆の顔は泥と血にまみれ、その瞳に生気はない。突如として起きた惨劇に通りは騒然とし、騒ぎを聞きつけた野次馬たちによってあっという間に馬車は取り囲まれた。集まった群衆は口々にやじを飛ばし、その声は人数が増えるにつれて大きくなっていった。
「まったく騒々しい……」
あまりのやかましさに耐えかねたのか、馬車の窓が開き、金色のレースに縁取られたジャケットに身を包んだひょろ長い顔の男が首を出した。
「それで君、いったいどうしたのだね……?」
ひょろ長い顔の男は、まるで朝食の献立をたずねるような口調で、いまだに帽子のつばをいじくり回している御者に問いかける。
「へぇ旦那ぁ……おいらが悪いわけじゃぁねぇんです……そこの婆さんがいきなり馬車の前に飛び出してきたんでさぁ、それでひいちまったってぇわけで……」
「ふざけるな! どうみたってお前らの不注意だろうが!」
「なめやがって……貴族だからっていい気になるなよ!」
しかし御者の見苦しい言い訳は群衆たちの怒声にかき消され、ついには馬車によじ登り、今にもつかみかからんばかりの勢いで御者に詰め寄る者まで現れた。
「このくそったれ共を痛い目にあわせてやれ!」
不意に誰かがそう叫び、高まっていた熱気は頂点に達した。そして怒れる人々の手によって馬車から引きずりおろされた御者が、群衆の波に飲み込まれたまさにその瞬間、通りに一発の銃声が響いた。
「そこまでだ! 馬車から離れろ!」
驚いた群衆が顔を向けた先には、数十騎の騎兵を引き連れた将校が空にピストルの筒先を向けたまま、冷ややかな眼差しで彼らを見下ろしていた。将校の後ろに控えている騎兵たちは銃を構えており、その銃口が自分たちに照準を定めていることを理解した群衆は凍り付いた。
「聞こえなかったか……馬車から離れろと言ったのだ」
騎兵隊の将校は腹の底に響くような低い声でそう言うと、馬を数歩前に進めた。一人、二人と馬車の周りにいた者たちの中から逃げ出す者が現れ、ついには蜘蛛の子を散らしたように通りには誰もいなくなった。
「お怪我はありませんか……デュフレーヌ侯爵閣下」
騎兵隊の将校は馬から下り、馬車に近づくと恭しく礼をした。
「大丈夫だ、君は……」
「騎馬警邏隊のゲルシェです。騒ぎを聞いたので駆けつけました。大事に至らなくて何よりです」
「ゲルシェ君か……覚えておこう。それにしても近頃は無作法な貧民共が増えて困ったものだな、ああいう連中は君らがしっかり取り締まってくれんと安心して外出もできん」
「申し訳ありません……以後、このようなことが起こらぬよう最善を尽くします」
ゲルシェは深々と頭を下げ、それからまだ地面にうずくまっている泥まみれの御者の襟首をひっつかみ、起きあがらせた。
「うへぇ……警邏隊の旦那ぁ、乱暴はよしてくだせぇ」
「しっかりしろ、立つんだ。奴らが戻ってこないうちにここから離れるぞ」
もたついている御者の尻を叩き、ゲルシェは馬に跨がると、馬車の窓越しに侯爵に伝えた。
「行きましょう、通りを抜けるまで我々が護衛に当たります」
「それは助かる、是非お願いする。こんなひどい場所に長居は無用だ」
御者がぴしゃりと馬に鞭を打つと、馬車はまた泥を跳ね上げながら走り出した。馬のいななきがだいぶ遠ざかった頃、再び通りに出てきた人々は恨みのこもった視線を馬車が通り過ぎていった方向に向けた。
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「まったく……ひどいもんだな。ポリーヌ婆さんも気の毒に、そう思わないか」
血が混じって赤黒くなった地面のぬかるみを眺めていると、ふと横から声をかけられた。
「ああ、そうだな。ロイク……」
「警邏隊の連中さえ来なけりゃ、あのくそ野郎の頭を一発ぶん殴ってやれたのに……」
ロイクは悔しそうに歯ぎしりして、ぬかるみにくっきりと残った轍を睨みつけた。
「それにしても、本当にあの貴族って連中には虫酸が走るぜ! 俺らをいったい何だと思ってやがるんだ!」
「まあ、落ち着けよ……」
興奮気味のロイクは足踏みを始め、赤くなってうっすらと湯気さえ上っているようにも見える顔をずいっとこちらに近づけた。
「お前は悔しくないのか! あの侯爵といい、将校といい! ポリーヌ婆さんや俺たちをゴミでも見るような目で見やがって! あの目を思い出すだけで腹の底がむかむかしてきてどうにもおさまりがつかねえ!」
「……俺だって悔しいさ。でも怒ったってどうにもならないだろ」
「なんだよ……お前って奴は、なんでいつもそんなに冷めてんだよ……がっかりだぜ」
ロイクはこちらに背を向けると、肩を落としてとぼとぼと歩き出し、薄暗い裏路地へと消えていった。その姿が見えなくなると、自然とため息がこぼれてくる。
「人生も三度目となると、そりゃあ冷めた人間にもなるさ……」
本当に三度目ともなると、慣れたのか、転成したときもたいして驚かなかった。それにしても、思い返してみると以前の二度の人生もなかなかのハードモードだった。一度目の会社員時代は働きすぎて過労死、二度目の戦列歩兵時代は砲弾で脚を吹っ飛ばされて失血死……そして、記念すべき三度目の人生は、びっくりするほど貧乏な下層民衆。もうここまでくると呪いかなにかだろう。
しかし、幸いというべきか、俺は今後この世界がどうなるかを知っている。ため息を吐きながら肩の関節をならし、いまにも降り出しそうな鉛色の空を見上げて、数十年後の懐かしき世界を思い出した。
「ロイク……もう少し辛抱すりゃ革命が起こる。そうなりゃラテリア共和国だ」
更新が遅くなってしまい、すみません。ついに2章スタートです。




