56話 ぐるぐる巻きの紐
お父さんとフォガスさんが、チャルト子爵の前のソファに座る。
「こちらの方は、どなたでしょうか?」
チャルト子爵が不思議そうな表情で、フォガスさんに視線を向けた。
教会で修復の仕事をしているフォガスさんの服装は、お父さんとよく似た動きやすい服装なので、見ただけでは護衛騎士だとは分からないのだろう。
「俺はフォガス・ルーグです。教会の護衛騎士をしています」
フォガスさんの自己紹介を聞いた後、チャルト子爵の表情に違和感を覚え、しばらく様子を窺う。
『あれ? 今こいつ、フォガスを睨まなかった?』
お父さんたちが座っているソファの後ろから様子を窺っていたユウが、チャルト子爵をじっと怪しむように見た。
んっ? 睨んでたの? 横から見ているからわからなかった。
「申し訳ありませんが、彼もいっしょに話を聞いてかまいませんか? その……あなた方のような貴族の方に慣れていないもので……」
「もちろんかまいません。私が急に来てしまったのがいけませんでしたね。申し訳ありません」
優しげな表情でお父さんに頭を下げるチャルト子爵。
「頭を上げて下さい。問題ありませんから」
慌てたお父さんがチャルト子爵に頭を上げるように促すと、チャルト子爵は嬉しそうな表情を見せた。
「それで、この書類なのですが……」
チャルト子爵がテーブルの上にあった数枚の書類をお父さんに差し出す。
「すみませんが、俺が確かめても問題ありませんか?」
フォガスさんがチャルト子爵に視線を向ける。
「えぇ、もちろんです。こちらはアーオス伯爵家の当主からお預かりしてきたものです」
フォガスさんはチャルト子爵から書類を受け取ると、ゆっくり読み始めた。しばらくの間、書類をめくる音だけが響いた。
「リグス殿」
「はい」
「この書類には、賠償金を受け取った場合には提示した金額以上の金銭は要求しないこと、また事情を知らない第三者に誤解を与えるような話はしないことが記されています。それに賛同できない場合は、話し合いで決めることになっています。どうされますか?」
『へぇ、書類に問題はないんだ。さっきのあいつの態度から、書類に問題があるのかと思った』
私もそう思ったけど違ったね。
「それで問題はありません」
「では、三ヶ所にサインをお願いします」
チャルト子爵がサインする場所を指すと、お父さんは頷く。
「はい」
お父さんがサインをすると、フォガスさんがそれを確認して頷き、チャルト子爵に渡した。
「ありがとうございます」
チャルト子爵は受け取った書類を確かめると、一枚をお父さんに渡し、一枚を自分の鞄に入れ、最後の一枚を封筒に入れて、のりでしっかりと封をした。
「こちらの封筒の中にある書類は、裁判所に提出します。残りの二枚は、それぞれが持っておく事になりますので、よろしくお願いいたします」
チャルト子爵がお父さんとフォガスさんに頭を下げると、二人もチャルト子爵に向かって頭を下げた。
「では、賠償金はこちらになりますので、中をお確かめ下さい」
チャルト子爵は、テーブルの隅にあった袋をお父さんの前に差し出した。
「わかりました」
お父さんが少し戸惑いながら金貨を数え、数え終えるとチャルト子爵に頷いた。
「問題ありません」
「では、これで終わりという事でかまいませんか?」
「はい」
お父さんがお兄ちゃんと私に目を向ける。その視線につられて、チャルト子爵もお兄ちゃんと私を見た。
なんだろう。チャルト子爵に見られたとき、なぜかとても嫌な感じがした。うまく言葉にはできないけれど、心のどこかでチャルト子爵を受けつけない気がした。
『チャルトの笑顔、あれ気持ち悪いな』
『あぁ、あれな~、作り物だからだよ。笑っているように見えるけど、まったく笑っていない。だから人によっては気持ち悪く見えるんだ』
ユウの言葉に、オルガトがチャルト子爵を見ながら言う。
『作り笑い』
『そうそう。チャルトの目元を見てみろ。ムリに笑った表情を作るから、少し引きつってる』
オルガトの言葉を聞きながら、そっとチャルト子爵を窺う。
目元? え~、引きつってるかな?
『オルガト、よくそんな事がわかるな。俺にはさっぱりわからない』
ユウと一緒だ。私もさっぱりわからない。
「それでは失礼いたします。あぁ、そうでした。私はこの村に少し滞在します。もし何かあれば気軽に声を掛けて下さい」
チャルト子爵が、お父さんとお母さんを見る。
「ありがとうございます。何かあれば、その時はよろしくお願いいたします」
お父さんとお母さんがチャルト子爵に向かって深く頭を下げたので、お兄ちゃんと私も一緒に下げる。
「では、失礼いたします」
玄関の中からチャルト子爵の乗った馬車を見送る。
少しして、見送りのために外へ出ていたお父さんとお母さんが、やや疲れた様子で戻ってきた。
「無事に終わったな。みんな、お疲れさま。フォガスさんも、本当にありがとうございました」
お父さんが、お兄ちゃんと私の頭を軽く撫でると、フォガスさんを見た。
「いえ、何事もなく終わって良かったです」
『本当だな。それよりリーナ、あの紐が何かわかったか?』
まったくわからなかった。でも、チャルト子爵が横を通ったとき、ひどい悪寒を感じた。たぶん、あの紐が関係しているのだろう。
『見えない紐か。俺も見たいな。何か方法を知らないか?』
オルガトの質問にユウが嫌そうな表情を浮かべる。
『俺がそんな事を知るわけがないだろう? だいたい、あんな不気味な紐。よく見たいなんて言うよな』
確かに、あの紐は不気味だった。チャルト子爵の首に巻き付いた紐の数は、重なり合っていたからよくわからなかった。でもおそらく数十本はあったと思う。
『リーナ、紐の先は見えた?』
周りにバレないように小さく首を横に振る。
『そうか』
『先って?』
オルガトが興味津々な声を出す。
『奴の首に巻き付いていた紐は、二重か三重になっているように見えた。そして、その紐の先は首の後ろでふわふわとたなびいているんだ。でも、体から二十センチメートルほど離れたあたりから徐々に見えにくくなって、最後には完全に見えなくなっているんだ』
そうなんだよね。紐の先が、空中にスーッと消えていた。
『へぇ、消えていたね』
オルガトが不思議そうに首を傾げる。
『あ~、やっぱり気になる! ユウ、さっきのチャルトって奴を追いかけよう』
『オルガト、ムリだ。俺たちの移動はおそらく制限されてて……もう、話くらい聞け!』
言うだけ言ってリビングから出て行ったオルガトを、ユウが怒った顔で追う。
あの二人、大丈夫かな?
「リーナ、アグス、夕飯にしましょうか。手を洗ってうがいをしてらっしゃい。フォガスさんも一緒にどうですか?」
「お誘い頂きありがとうございます。ですが、少し用事がありますので、俺はこれで失礼いたします」
「そうですか、残念ですわ。そうだ、今度夕飯にお誘いしてもいいかしら?」
お母さんの誘いに嬉しそうな表情を浮かべるフォガスさん。
「それは嬉しいです」
「良かった。では、近々お誘いしますね」
外までフォガスさんを見送ると、お兄ちゃんと一緒に洗面所に向かった。
夕ごはんが終わり、自分の部屋に戻ると窓から外を見た。ユウたちは、さっき出かけたまま帰ってくる気配がない。
「どこまで行ったんだろう?」
ユウは私からある程度の距離しか離れられなかったはずなんだけど。
『リーナ! チャルトって奴はやばい奴だった』
部屋に飛び込んできたユウの言葉に、私は思わず目を見開いた。
「どういう事? あれ? オルガトは?」
『オルガトは家の周りに不審な人物がいないか見て回ってもらっている。それより、チャルトだよ。フォガスといた広場の近くで馬車を止めたら、護衛の一人にフォガスを見張るように命令してた』
「えっ? フォガスさんを?」
『そう』
「理由は?」
私の質問にユウは首を横に振る。
『そこまではわからなかった。でも、馬車の中でチャルトがぶつぶつ独り言を言っていたから、中に入って様子をうかがってみたんだ』
プライバシーを完全に侵害してるな。
『「教会の護衛騎士ごときが」とか「教会の犬」とか「教会が邪魔をするなら……」と言っていたよ。あれは、フォガスに対してというより、教会そのものを嫌っているようだったな』
「女神信仰が根強いこの世界で、教会を嫌う人がいるの?」




