なんで彼女がなんだよ
サスペクトパシー。
その病名を聞いて、頭の中に思い浮かんだ光景は、テレビに映っていた患者たちの様子だった。透明なビニールカーテンで閉ざされた無菌室の中、錯乱して喚き散らしていた。医者の懸命な治療さえ拒否し、人から外れていく不甲斐ない存在。
僕には覚悟がなかった。それがすぐ隣で起こるという現実に対する覚悟が、僕にはなかった。
許容できず、否定する。否定したい。でも、霧島さんは、この数日間で自傷行為を繰り返してきた。鏡を見ると衝動的な不安に駆られると。安心させてと僕に言った。いつか自分が、不安に押しつぶされて甘えることしかできない不甲斐ない存在になってしまうとも言っていた。霧島さんは、自分を病気だと認めてしまっていた。でもそれが、あの病気だなんて。
感染経路不明。特効薬、治療薬なし。
嘘だ、嘘だっ!
何度も心の中で呟く。叫ぶ。喚く。いっそ、分からずやな自分を口から吐き出してしまおうか。そう思っても、僕は否定されるのが怖かった。
車の後部座席には、打ちひしがれた僕が座っていた。現実を受け入れることも否定することも、できなかった。
僕の家に着くまでの静寂。焦燥感に塗れた空虚な時間が過ぎて行った。
遅い帰宅。送ってもらった霧島さんの母親には、空返事を返した。知ったような態度で、失礼なことを口走ったかもしれない。そう思いつつも、言葉は何も出てこなかった。その瞬間、僕はきっと、人形にでもなっていたんだと思う。
虚ろな目で、玄関の鍵を差し込む。回す方向を一度間違えた。土間から一段上がった段につま先をこつんとあてて、かかとを浮かせる。まるで歩いていたら自然に脱げてしまったかのように、土間に靴だけを置き去りにして廊下を歩く。靴を揃えに振り返ったりはしない。母が遅くなるなら連絡くらいしなさいなどと言った気がする。あの言葉を聞いてから、僕は外界をシャットアウトしていた。
『苦しいだろうけれど、あの子が良くなることは諦めて欲しいの』
どうせなら、そんな忌々しい言葉、葬り去りたい。そうしたら、どれだけ楽になれるか。現実を受け止めることに対する半端な責任感が、頭蓋の周りをきりきりと拘束していた。疼く額を押さえ、勉強机に突っ伏す。
何もする気が起きない。宿題も、明日の予習も、何もかも。僕の頭の中を支配したのは、受動的な妄想。水が低きに流れるように、ひたすらに垂れ流しにされる歌う猫の声。
『今ある全てが壊れてしまったら』
霧島さんの言葉が、流れ込んできた。
あの帰り道で、考えていたことの反対。
僕が感じた春の訪れを彼女は感じない。彼女の靴や服に桜の雪は降らない。汗ばんで、雨が多くなって、制服の袖やスカートの丈が短くなった。青々とした木々がやがて色づいて全て落ちて枯れた。白い霜が降りて。僕は同じ家路を同じ靴音で歩いている。音はひとり分。僕の背丈が彼女を追い越したときには、彼女はもうそこにいない。
嫌だ。そんなのは嫌だ。
嫌だっ! 嫌だっ!
荒々しく、勉強机を叩く。フローリングの床に膝を折って、天井を仰ぎ見る。考えることなんてやめてしまおうか。脳細胞が動くたびに、霧島さんがいなくなることを考えてしまう。
どうして霧島さんのお母さんは、あんな言葉を言ったんだ。僕と霧島さんを引き裂きたかったのか。
いいや、僕はなんて矛盾してるんだ。霧島さんのどんな不安だって受け止めるって言ったのに。僕は何も受け止められないほど弱い。このまま時が止まってくれれば楽になれるのに。
そう思った瞬間、真っ白な天井のキャンバスに彼女がつけているブレスレットに埋め込まれた琥珀が浮かび上がった。思えばどうして、僕は琥珀を好きになれなかったんだろう。そして嫌いなはずの琥珀がこうして、突発的に僕の脳裏に飛び込んで例えようもない輝きを放つのだろう。
琥珀の中では一匹の蟻が樹液の中で溺れ死んだまま固まっていた。蟻の身体は、命がなくなってから悠久の時を経たにも拘わらず、朽ち果てることなく、在りし日の美しい姿を保ち続けている。だけど同時に、その蟻がそこで死ななかった未来を犠牲にしている。
あの蟻はもしかしたら、もっと生きていたかったかもしれない。
変わりゆく今が、良くなることを期待していたかったのかもしれない。
たとえ僕たちの目には生きているように映っても、閉じ込められた蟻に失われた未来があることは確かだ。
『なんでこんな詩……。あたし、書いちゃったんだろう』
彼女は、あのときどうして、あの詩を拒んだのだろう。私は琥珀になりたい、とうたうあの詩が表わす意味は、何なのだろう。
『好きだよ。誕生石だし。でもあたしは、今はまだ……。きっと、今はまだ……』
まだ。今はまだとは何なのだろう。
『これは駄作ね』
そう言って彼女が噛み潰した気持ちは、何なのだろう。これからどうなるか、彼女はどこかで分かっていたんじゃないか。だから、時間を止めたくて止めたくて、仕方がなかったんじゃないか。今あるすべてが壊れてしまうなら、その全てを。
体育館の屋上から飛び降りたとき、彼女は、まさに琥珀になりたかったんだ。彼女は、変わってゆく今の残酷さに怯え、未来に期待することを諦めた。今の僕が真実を知ることを拒み続け、真っ白な天井を眺めながら怠惰な悦楽に浸るように。
駄目だ。やっぱり、そんなの駄目だ。それじゃあ、僕は何にもできていないじゃないか。
今を諦めて、退屈な日々にため息をついていたのは、かつての僕。そんなふて腐れた僕の毎日を、霧島さんが救ったんだ。今度は僕が霧島さんを救うんだ。
――私は琥珀になりたい。
そんなこと言わせるもんか。今以上の未来がないなんて絶対に思わせない。僕は、知ってしまう恐怖にがくがくと震える手で、学生鞄の中身を漁る。怖い。怖いけど、探さずにはいられない。事実を知らないことは、浅はかな希望を与える。でも、そんなところでうずくまっていても、何も変わらない。
僕はスマートフォンで、ブラウザを開き、サスペクトパシーに関する情報を集めた。僕は情報の海に深く潜る。たとえ、そこに光がなくても。
まずは、医師からの言葉に目を通した。
――サスペクトパシーは、ここ数年で患者が増加している感染性精神疾患であり、数々の精神疾患と症状が酷似しながらも、非常に病態の進行が速いことが特徴とされる。明確な治療法も、感染経路も判明していない新種の感染症であるため、患者は隔離病棟で、陰圧無菌環境下での治療を余儀なくされる。
――残念なことに、現在サスペクトパシーの治療法は明らかになっておりません。治療法が開発されることのないまま、病態が取り返しのつかないところまで発展することが殆どでしょう。それなりのことを覚悟しておいてください。
病状は刻々と進行していき、発作が現れることもあります。ご家族も不安でしょうが、一番不安なのは、患者本人だということを、忘れないでください。
続いて、患者の家族や友人が綴った、ブログの記事も。
――父がサスペクトパシーと診断された。私はひどく自分を責めた。どうして、遠ざけたりしたんだろうって。話しかけられても無視したし。門限を破って彼氏と会っていたとことを怒られた時は逆切れもした。約束を破ったのは私なのにね。
今では、父が私の言葉を無視するようになった。これは罰なんだ。誰が悪いか分かっていながら、認めてこなかった私への。もう、父は良くならない。私と父の関係は、ずっと壊れたままだ。病気のせいじゃない。他でもない、私のせいで。
――友人の千沙がサスペクトパシーと診断されて、隔離病棟に移されてから三日が経ったころ。お見舞いから帰ろうとすると、必死に引き留めるようになった。
ひとりになるのが怖い。自分をゴミみたいな目で見つめてくるから、と。
『香帆は変わらないよね。あたしをゴミみたいな目で見たりなんてしないよね』
ビニールカーテンの隙間から伸びる千沙の腕に、私は恐怖を覚え尻餅をついて倒れた。何で私は、千沙を避けたのか。それは我が身が可愛かったから。
私は千沙みたいになりたくなかった。こんな閉塞と孤独にまみれた空間で、治療法もない不治の病という恐怖に怯えるのは嫌だった。私は、病気の千沙を目の前にして、自分が病気でないことにあぐらを掻いていた。
そして、千沙にとうとう明日は来なかった。
ブログに書かれた、その一文を見て、右手の力が抜けた。するりと落ちたスマートフォンが、フローリングに叩きつけられた。
なんで、なんで、彼女がなんだよ。
「ちくしょう」




