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琥珀  作者: 津蔵坂あけび
8/15

病名

 霧島さんは、全身打撲の上、左脚を複雑骨折。左腕の骨も折る重傷。だが、幸い一命は取り止めた。彼女は、何の躊躇もなく、体育館の屋根を蹴って飛び降りたんだ。詳しい理由なんて知らない、分からない。まるで、彼女は死んでしまいたかったみたいだ。


 あのとき霧島さんは、背中に大きな翼が生えている天使のようだった。それくらい、恐れのない足取りで彼女は跳んだ。でも彼女が飛べなかった。数える間もなくして、彼女は重力によって叩きつけられた。あまりにものショックで、記憶が曖昧になっていたけれど、思い返せば、あのときの霧島さんの脚は、肉と骨が――


「ううっ、うぇっほ。えっほ!」


 手術室前。手術中の赤色ランプが点く薄暗い病院の廊下のベンチ。僕はそこで盛大に吐瀉物を撒き散らした。そこで看護婦に声をかけられて。――僕は今、診察室にいる。あのとき無残な霧島さんの姿がフラッシュバックしてきただけだというのに、また洗面器にげろげろと吐いてしまう。

 

「大丈夫ですか」

「は、はい……。だいぶ落ち着きました」


 面倒を見てくれた医者は、時間外で診察室が開いていた消化器内科の担当だった。嘔吐患者の応対くらいなら看護婦だけでできるが、気を回して診察のできる医者の所まで連れて行ってもらえた。

 本当はまだ気分が悪いけど、どうしようもないわけではなくなった。薬をもらっていくかどうかも聞かれたが、それは流石にお金もかかってしまうと言われたので、遠慮した。診察時間を終了した医者に、これ以上自分の世話をしてもらうわけにはいかない。僕は、霧島さんの付き添いで来たのだから。そうだ、霧島さんは手術が終わったのか。


「あ、あのっ、霧島千尋さんは? こちらに左腕と左脚の骨折で、運ばれて来たんですが……」

「ああ、彼女なら無事手術も成功して、病室に入ったよ」


 それを聞いて安心した。だが、少し違和感を覚えた。消化器内科の先生が、つい先ほど搬送された手術患者のことを知っているのが、どこか都合がよすぎる気がした。


「ありがとうございます」


 深々と頭を下げて礼をした。時刻はもう七時を過ぎている。親から連絡がない。中学に入りたての頃は、この時間まで外に出ていると、電話が必ずかかって来ていた。最近は心配されていないのか。僕が距離を置きたがっているのを少し感じているのか。

 病院の中は、灯が一段落とされて、暗くなっていた。面会時間の終わりをそれとなく知らせるために、空気がよそよそしさを帯びてくる。


 今日はもう、霧島さんのところには行けないか。心の中で呟いた。物凄く心もとない気持ちになった。

 

 彼女は入院した。


 その事実は、病院の玄関を出て、僕の背後で自動ドアが閉まったと同時に肩に重くのしかかってきた。また吐いてしまいそうな気がした。後ろで聞こえたドアが閉まる音。それは、僕と彼女の世界が分断された音だった。

 何の理由もなく振り返り、暗くなっていく空の下で僕は病院の入り口で立ち尽くす。まばらに人が出ていく透明なドア。開けては閉まり、世界を分断していく。健常者と病人というふたつに分けていく。


 やっと僕は……霧島さんが、どれだけ大切か分ったのに。

 またこうして、離れてしまう。

 彼女の不安ならなんでも受け止めるって誓ったのに。

 自分が不安になってしまう。


 自分の不甲斐なさにどうにかなってしまいそうだ。

 彼女が大怪我をしたのに、僕はその傷のグロテスクさを思いだして、吐いてしまった。今だって、彼女が遠くに離れて行ってしまったようで、病院の玄関コンクリート製の庇の下から動けなくなっている。こんなとき親から連絡でも来れば、踏ん切りがつくのか。どのみちここで待っていても、面会時間を過ぎた病院の中に入れるわけじゃないのに。


 ――そして空が真黒になったとともに、ぱらぱらと雨が。街灯に照らされた都会の空のくせにやけに暗くなると思ったら、雨雲が覆ってたみたいだ。雨は、叩きつけるかのような土砂降りになった。


「あんた、もしかして皆瀬くんかい?」


 突然背後から話しかけられた。

 面会時間をとうに過ぎた病院の入り口にずっと立っているのだから、不審に思われても仕方がない。謝ろうと身を屈めながら振り返ったときに、あることに気づく。


 この人は僕の名字を知っている。


 なぜだろう。声は、女の人だった。顔を上げると、四十歳ほどの中年の女性がこちらを見ていた。目じりにしわが寄っているが、涼しげな瞳。どことなくそう、霧島さんに似ている。多分そうだ。そう思って聞いてみた。


「もしかして、霧島さんのお母さんですか」


 こくりと頷いた。霧島さんの家族に会ったのは初めてだった。少し変な緊張が走る。こんな形で会うとは思っていなかったし、何よりも――


『あたし、お母さんのこと嫌い……』


 彼女がそう言っていたから。


「皆瀬くん、こんな雨だし。送ってあげようか」


 断ろうかとも思ったけれど、僕はそのための傘を持っていなかった。


     ***


 霧島さんのお母さんは、僕を後部座席に乗せた。車は黒のベンツだ。ボンネットのところに僕でも知っているエンブレムがあった。どんなベンツかまでは分からないが、ベンツはいい車だ。霧島さんはお嬢様かなんかだったのか。


「さて、皆瀬くん、聞かせてもらおうか」

「え? な、なにをですか……?」


「うちの千尋のどこが気に入ったのか」


 窓ガラスを打つ雨音がうるさかったから、聞こえなかったことにしたいような質問だった。こちらの会話が聞き取りやすいようにか、音楽もラジオも流していないということが少しむかつく。

「なんで、僕のこと知っているんですか」

「そりゃ、一緒に帰ってたとこも見てたしねえ」

「千尋はね、分りやすい子だったの」

「……、そうなんですか」


 霧島さんが分りやすいというのは、少し不思議に思えた。僕が知っている霧島さんは、どこか掴みどころがなくて、探ってもはぐらされる不思議な人。そんな彼女のことを分りやすいだなんて言えるのは、やっぱり家族だからなのか。


「嬉しいとすぐ笑うし、あの子は表情に出やすいのよ」


 確かに表情が豊かだとは思う。子供みたいにころころ変わって、一緒にいるとこっちまで落ち着かなくなってくる。


「だからとっても育てやすかったのよ。うち、旦那が早くに亡くなったから、ひとりで育てられるか、少し心配していたんだけど。本当に千尋が分りやすい子で良かったわぁ」


 僕はその話をぼんやりと聞いていた。僕が霧島さんと毎日のように一緒に登下校しているのも知っている。ふたりで帰っていたのを見かけたから僕を知っていたということらしい。

 話し方が人懐っこいけれど、近寄りがたい。なんだろう。おばさんがやっている世間話のような独特のテンションだ。霧島さんの歌う猫のような話し方とは全然違う。


 違う。なんか、違う。霧島さんが分かりやすい。それは違う気がする。

 それから霧島さんの母親の話は、頭の中で内容が途切れ途切れになった。習わせたピアノが上手だの、バレエやバイオリンも習わせただの。


 ――そんな話の合間に僕は、最初に霧島さんに会ったときのことを思いだしていた。そのころ僕は、よく園芸部の友達に、花壇の世話を頼まれていた。


「なあ、帰りにコンビニ行かね? 今週号の袋とじ、すんげーおっぱいデカい奴でよー」


 狩谷は、そういうことをズケズケという奴で、そのころから嫌いだった。友達でもないのに馴れ馴れしいし。


「悪い。僕、園芸部の手伝い頼まれてるから」

「あの友達ってやつか? いつも頼まれてるな」


「だからなんだよ」

「それって友達かよ。んなんより、大人の階段を登ってみねえか? なあ?」


 そのときは奴のノリが、いかにも馬鹿で下品な男子高生だったから。徹底的に冷たくしていた。けれど、今になって考えてみれば、奴の言う通りだったのかもしれない。

 園芸部の頼み事は当たり前のように続いて、僕はついに考えることを止めていた。――友達と呼んでもらえればいいや。一緒に帰ったこともないけど。

 がさり。がさり。


 無心になって花壇の雑草をむしっていた僕の耳に、このときはじめて環境音が鮮明に飛び込んできた。

 今までずっと、狩谷に言われたことに、モヤモヤしながらだったから、周りの音が全く聞こえていなかった。

 そして、枝葉が揺れる音を辿って頭上を見上げると制服のスカートがひらりと太い枝にかかっているのが見えた。誰かが木に登っている。――女子生徒だ。

 しばらく見つめていて、自分がやっていることに気づく。


 制服のスカートを履いた女子生徒を下から見上げている。


「どーこ見てるのよっ」


 高校一年生。桜が散って青々とし始めた五月の頃、僕は霧島さんに出会った。彼女は慣れた手つきでするすると降りて来て、僕が雑草を抜いている横にしゃがみ込む。距離がやけに近い。


「あなたは園芸部?」

「い、いやいつも頼まれてて……仕方なく」

「仕方なく花の世話なんかしないでほしいなー」

「えっ?」

「あたしね、花が好きな人は好きなんだよ。いっつも真面目に世話してたから、なーんか期待外れっ」


 こちらの事情も知らないで、なんだかデリカシーがない人だ。僕はデリカシーがない人が嫌いだ。狩谷とか、こいつとか。毎日のように花の世話をしていたけど、僕は花の名前も知らないし、興味はなかった。ただ友達と呼ばれたくてやっていただけだった。


「そんなこということないだろっ。こっちの気も知らないでっ。友達でいられなくなるから、世話してるだけだっ! いきなり初対面のくせに、何が期待外れなんだよっ!」

「……、あなたは自分が求めるものを誰かに求めている。自分が言って欲しいことを相手に言って欲しい。見返りを求めてる。そんな気持ちで花の世話はしないでほしい」

「何が言いたいんだよ」

「ちょっとお礼をしようと思って。でもあなたこの花の名前も知らないんでしょっ。自分の興味でやってるんじゃなさそうだもの」

 デリカシーはないし。こちらの痛いところを的確に突いてくる。


「じゃあ、この花はなんていうんだよっ」


 逆上するがまま、そう尋ねた。花は花だ。僕が友達と呼ばれるための道具でしかない。なのに、勢い余って聞いてしまった。


 彼女はそっぽを向きかけたところを、くるりと振り返って、にっこりと笑った。少しだけ見とれてしまった。その端正な顔が、僕の目線より少し高いところから笑いかけるから。

 背が高い。髪が長い。声が綺麗。唇がやわらかそう。身体の線がすらりと美しい。彼女に関するいろんな情報が視覚に飛び込んできて、僕は頬の血管に血が上るのを感じた。


「ガザニア」

「へっ」


「ガザニアっていうの、この花は。花言葉は『あなたのことを誇りに思います』。もし、あなたが心から花を慈しんでいたのなら、送りたかった言葉だわ」


 だから彼女からその花の名前を聞いたとき。初めて花の形が、色が目に入った。コンパスで描いたように整った幾何学的な美しさを持つ花の形も。鮮やかで光沢のある花びらの色も。だから、彼女の名前を知りたくなった。


 そうすれば、彼女がもっと綺麗に見える気がした。


「あのっ、な、名前はなんていうんですかっ」

「なによ、かしこまっちゃって、皆瀬空太くん」

「えっ、なんで僕のことを……」

「同じクラスよ。あたしは霧島千尋」


 霧島さん。彼女の名前を僕は知った。

 それから程なくして、僕は園芸部の友達の手伝いを頼まれなくなった。代わりに宿題とかノートを写させてくれとそいつに頼まれるようになった。なんかもう嫌になって、友達をやめた。


 それでもなぜか花壇のガザニアの世話だけはやめられず、いつしか日課になっていた。


「園芸部でもないのに僕はおかしな奴だ」


 ぼそりと呟く。


「そーらーたも、花に向かって独り言とか言っちゃうんだー」

「おわぁあっ!」


 しゃがみ込んでいるところに急に話しかけられたものだから、転んでしまった。霧島さんは僕を笑った。いつの間にか、呼び方が、下の名前に変わっている。でも嫌じゃない、むしろ、楽しいのだった。


「霧島さんは、どうして花が好きなの?」


 気になって聞いてみた。


「花はきっと何でも聞いてくれるから」

「えっ……」


「花は見返りを求めて咲いているわけじゃないから」


 ――霧島さんは分かりやすかった。違うだろ。霧島さんは育てやすかった。違うだろ。すぐに言うことを聞いてくれた。どんな習い事でも真剣に取り組んでくれたし、何でも器用にこなす自慢の娘。


 ……、違う。違うだろ。

 追憶から僕が帰って来ても、霧島さんのお母さんは、帰ってきていなかった。


「でも、あの子が高校に入ってから、反動がついたようになっちゃってね。詩だとか小説だとかそういうものにどっぷり浸かっちゃって少し成績も下がったわっ。私はあの子を留学させようと思ってたのに」


 相も変わらず、自分の娘の表面上だけしか、都合のいいところしか、見ていない。


「確かに本は読みなさいと言ったけど、書く人になりなさいとは言ってないわ。おまけに文系に進むだなんていうし……。この頃なんて、こんなのあたしじゃないとか、鏡に向かって、ぶつぶつ呟いて、案の定あんな病気になっていて。道理でおかしいと思ったわ」


 なんで家族なのに、そんなことも分からないんだよ。嘘つき! ちっとも、分かっていないじゃないかっ!


「今のあの子は千尋じゃないのよ」

「いい加減にしてくださいっ!」


 車の中で大声を出してしまった。

「あなたは、霧島さんのなんなんですかっ! 家族じゃないんですかっ!」

「もちろん家族よ……、だから?」

「だったら、彼女のことを受け止めてあげてください!」

「受け止めるって、あの子は手に負えない病気なのよ」

「自分の思い通りにならないのを、病気のせいにしているだけじゃないかっ! 霧島さんと病気を切り離さないでください。霧島さんは、どんなになっても霧島さんなんですっ」


 制服のスラックスの布がくしゃくしゃになってしまっている。自分の息が荒い。我慢ならなかった。


「だから、だからっ……霧島さんのお母さんであるあなたがっ、霧島さんから逃げるだなんて、しないでくださいっ!」


 しばらく沈黙が続いた。

 少し冷静さを欠いてしまっていたかもしれない。そもそも僕は、そんな言葉を堂々と言えるほど、覚悟がある人間なのだろうか。いや、きっとない。なぜなら――


「あなた、あの子のことをそんなに思ってくれているのは嬉しいけれど。それは不毛なことよ……、今日一番あなたに言いたかったことはね。苦しいだろうけれど、あの子が良くなることは諦めて欲しいの」


 フロントミラー越しに、涙の川を見たとき。肩の震えを見たとき。僕は怯んでしまったから。


「あの子は‘サスペクトパシー’と診断されたの」


 その病名を聞いたとき。僕の中に、時計が落ちて割れる音が、再び響いた。

 僕の時間は、止まった。

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