最後の宿題
デートプランの次は背比べ。身体測定から二週間も経っていない。半ば敗北は決定したようなもの。ちゃんと測らないと怒られそうだから。不戦敗はしないでおこう。
「おお、皆瀬。どした? 放課後で保健室なんか」
学校の廊下で、脚を引きずる体操服姿の狩谷と鉢合わせになった。少し恥ずかしい。僕は狩谷よりも背が低いから。
「背でも、測りに来たか?」
言葉に詰まっていると、まんまと目的を狩谷に言い当てられてしまう。思わず肩がびくりと跳ね上がると、小動物みてえだな、と腹を抱えて笑われた。
「やめてくれよっ。捻挫してんのに、笑わせんなって」
そう言われて、改めて引きずっている狩谷の左脚に目をやる。
「肩貸そうか」
「保健室の目の前で言われてもな」
咄嗟に出た一言だったが、僕らが鉢合わせたのは保健室のドアの目の前だった。狩谷は、短く乾いたため息をひとつついた後、僕の肩に左の手を回した。
「んじゃ、頼むわ」
僕の肩に、狩谷の重みがかかる。少しよろけそうになりながら、僕は保健室のドアを叩いた。
「あら、いらっしゃい」
赤い縁の眼鏡をくいっと上げる、秋谷先生。僕は狩谷をパイプ椅子に腰かけさせたあと、手持無沙汰になって、突っ立っていた。背を測るという目的は、狩谷にはバレてしまったが、それでも彼の目の前で堂々と測るのは恥ずかしい。
「狩谷君、また、柔軟さぼってたでしょ?」
手をグーにしたり、パーにしたり。そんなことをしながら、狩谷がテーピングを受けるのを待つ。秋谷先生の口振りから、彼は度々ここに軽傷でやって来るらしい。陸上部で怪我も多いんだから、準備体操は念入りにしなさいと叱られていた。
「そういや、先生。皆瀬が、背測りたいって」
「あ、そうなの。言ってくれればいいのに」
そしてまた狩谷は、僕の調子を狂わせる。秋谷先生は、すくっと立ち上がり、身長計の隣に立った。秋谷先生の背は、霧島さんと同じくらいか、少し低いか。正直、秋谷先生の背を今越えている自信はない。半分、公開処刑のようなものだ。
「皆瀬くんは、遅咲きのタイプな気がするけどなあ」
秋谷先生のその言葉が、突き刺さる。僕の身長は、確かに男子の中でも低い方だった。母親の背をようやく越したか並んだぐらい。
「ほらっ、早く来るっ」
呼ばれて、身長計に立って、猫背がちな背を伸ばす。ことんと頭頂部をプラスチックの板が打った。
「百六十二・五センチね。少し伸びたんじゃない?」
「誤差だよ。誤差」
落胆して、元の猫背に戻る。狩谷が、口の周りを手で囲って、メガホンを作っていた。
背比べは、僕の負けだ。
僕と霧島さんの間の五センチの差は、まだ埋まっていない。
「落ち込まないのっ。まだ‘これから’なんだから」
これから。
秋谷先生が何気なく放った一言が、鼓膜にべったりと貼りついた。これから。秋谷先生も、狩谷も、霧島さんの本当の病気は知らない。陰圧無菌室から出られない、不治の病。そんなこと、ふたりは知るよしもない。
「なあ、皆瀬。今度、霧島さんのお見舞い、俺も行かせてくれよ」
「えっ、だ、駄目だよ」
今度。これから。そんな言葉が痛い。
「いいだろ。別に」
「よくないよ」
「まあ、いいんじゃない? 皆瀬くん、彼女が早く歩けるようになるといいわね」
僕と霧島さんに、「今度」も、「これから」も、あるかのような話し方をして、僕を慰めようとしてくる。
痛い、痛いなあ。
「にしても、どうして背を測りに来たんだ?」
「……、何となく」
僕が力ない声でぼそりと呟くとそこで会話は途絶えた。僕にだけ残されている未来の中で、僕は彼女の背をいつか追い越すのだろう。いつか、悲しい空想として思い描いていた未来は、少しずつ形になり始めている。まるで胸の中で棘を持った植物が成長していくようだ。刻一刻と僕を突き刺そうと迫って来る鋭利な棘に、肩を震わせて怯えた。
「おい、皆瀬っ……」
頬を熱い滴が伝うのを感じた。
見られたか。もう、走ってしまえ。
僕は保健室を飛び出した。背後で、走り出そうとした狩谷を、秋谷先生が止める声が聞こえた。彼が捻挫をしていたことに少しだけ感謝をした。
走り疲れて、僕は立ち止る。いつの間にか校門を出ていた。
走りすぎて胸が痛い。
このまま病院に行くのか。それも胸が痛いなあ。僕は、どうしたら心を休められるのだろう。病室で笑う霧島さんを見る度に、その笑顔が最後かもしれないと怯えている自分がいる。学校で授業を受けているときに、右隣の開いた席を見つめている自分がいる。家に帰って、かかるはずもない電話を待っている自分がいる。どこもかしこも、僕はこんなに、霧島さんでいっぱいなのに。
『ハイヒールは、もう少しだけ早いかなあ』
彼女がいつか言った言葉が頭の中に浮かんだ。昨日、宿題で出された背比べ。昨日、僕が初めて見た、夜の霧島さん。すべてが繋がってしまいそうなことが怖い。僕は自分を守るために、あの癖を発動させた。小説の結末の一歩手前で、本を閉じる癖。
僕は本を閉じた。
でもそれは僕が病院へ向かうバスに揺られながらしたことだ。現実という名の本は、僕の手の動きや理解のスピードを考慮してくれない。どれだけ、僕が結末から目を反らそうとしても、僕がこれから向かう場所に、結末は涼しい顔をして突っ立っている。
「次は、――病院前。――病院前です」
ちょうど、あのバス停のポールのように。
***
個室の番号も覚えた。毎日のように来ていると、看護婦の人にも顔を覚えられたし、僕も看護婦の顔を何人か覚えてしまった。入室する際の手荷物チェックも慣れた。何かを預かられるということもなく、すんなりと棟内に入る。靴底に触れるリノリウムの質感。やけに静かな回廊を反響する、僕と看護婦の足音。
慣れていく自分も少し怖い。
そして、看護婦が霧島さんの病室のドアを開ける瞬間。これも一際怖いと感じる。霧島さんから、「シュレディンガーの猫」という話を聞いたことがある。中が見えない箱があって、そこにいつ核分裂するか分らない放射性元素と、それを感知して毒を放出する装置があって、猫も入れられている。
猫は生きているのか死んでいるのか、箱を開けずに当てなさい。
核分裂なんていつするか分らない。だから箱の中を、言い当てることはできなくて、生きている状態と死んでいる状態が混ざってしまう。よく分からない話だったけど、さらにその後に霧島さんは、こう付け加えた。
その猫のことを自分が可愛がっていたら、この問題を出されたときにどう答えるか。
猫が死んでいるか、生きているか知りたいではなくて、猫が生きていてほしいと願うだろう。それが面白いと言っていた。事実を追い求めるんじゃなくて、事実がそうあって欲しいと願うことが好き。
あのときは、霧島さんの言葉は、ただの憧れで、意味なんて分かったものじゃなかったけど、今は分かる気がする。
「霧島さん、皆瀬さんがお見舞いに来てくれましたよ」
今の僕は、変わっていく「今」の脆さを知っているから。
「空太、背比べはどうだった?」
「僕の負けだ」
「そっか……、残念だね。ほんっとうに残念」
ベッドの上で彼女は、涙を流した。
どうして?
僕より背が高くて、それだけで泣くって、どういうことだよ。
「空太……、これで、あたしの勝ち逃げだね」
「勝ち逃げって、なんだよ」
そこにいたのは、僕の前で笑っている霧島さんでも、不安に怯えて泣いている夜の霧島さんでもない。
「言おうか、言わないか。すごく迷っていたんだけれど、空太は聞きたい? これからのこと」
箱を開ける前に中にいる猫は、生きているわけでも、死んでいるわけでもない。生きている状態と、死んでいる状態が混ざっている。ばらばらに思える出来事も全て、曲線でつながれている。僕らは、もう戻れない、「今」という曲線の上を歩いている。
「あたしは、これ以上、空太の時間を奪いたくない」
彼女は、生きているか。それとも、死んでいるか。
その本当の境目を知る術はない。いつから春が本当に始まるかを知らないように。いつから霧島さんが病気なのかも。いつから霧島さんが、それを考えていたのかも。
それが、病気のせいなのか。それとも僕が彼女を不安にさせたからなのか。僕の想いは彼女に安心を与えられたのか。それとも、彼女にとって、重荷になっていたのか。何も境目なんて、知ることは出来ない。
「お薬はちゃんと飲んでるって言ったけど嘘だよ。今、貯めている最中なんだ」
知ることが出来るのは、今が変わりつつあるという、混ざった状態であること。そして、変わってしまったという結果。
「だから空太。最後の宿題を出すね。もう、お見舞いには来ないこと。そして、あたしのことは忘れて、あたしに負けないくらい可愛い、新しい彼女を作ること」




