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琥珀  作者: 津蔵坂あけび
12/15

発作

 デートプランを考えてきてほしい。それが僕に出された宿題。スマートフォンでひたすらに調べもの。彼女が行きたい場所は、何処かな。遠くがいいのか。近くがいいのか。彼女が見たいものは、何だろう。花畑、それとも夜景か、神社仏閣か。城が見たいかもしれないし、洞窟だって面白そうだ。選択肢は国内でも、いくらでもある。


 真っ白な天井を見上げて、そんなことをぼんやりと考えている。


 欲しいイベントは、キスと添い寝。変な気を起こさないでね、と霧島さんがからかってきた。そんなことを言ってくるのは、狩谷ぐらいしかいなかった。少し妙な気分。


『そーらーたっ、明日はデートだよ』


 霧島さんは、そう言ってにやけていた。うふふと声を漏らしながら、本当に嬉しそうに目を細めていた。好きな人とデート。そう考えれば、誰だってそんな表情をするだろう。

 対して、僕は、デートプランを考える側だ。だからこんなに苦しんでいるのか。彼女が何をしたら喜ぶのか、真剣に考えているから、胸が痛いのか。


 選択肢なんて、無限大にあるのに。国内だって、国外だっていいのに。春だっていい。夏だっていい。秋だっていい。冬だっていい。遊園地でも、水族館でも、動物園でも、お洒落なレストランで夜景を楽しんでも。僕らは何だってできるし、何処にだって行ける。お金の心配も、距離も時差も関係ない。なのにどうしてこんなに、苦しいのか。

 浮かない気持ちで、真っ白な天井を見上げる。あのとき、彼女が一瞬だけ見せたあの表情が、キャンバスに蘇る。彼女の中の時が止ってしまったかのような。僕の中で時が止ったのは、彼女の病気を知ったとき。でもそれから、僕は強くなって、彼女の全てを受け止めると誓った。


『僕は合わせるよ。きっと大切な存在だっただろうから。どんなに遅くなっても、歩幅を合わせるよ』


 だからその言葉を言えたのに。彼女は、それが苦しいような素振りをした。

 それじゃあ、まるで僕が出した答えが間違っているみたいじゃないか。ならば、彼女は僕に、どう言って欲しかったというのか。

 あの蟻は、どこか霧島さんに似ていた気がする。僕の隣を歩いてくれる、生きていくことに前向きにさせてくれる存在。


 ひとりじゃ生きていけない。生きていたってつまらない。

 一匹じゃ歩いていけない。歩いていたってつまらない。

 だから、一緒に歩幅を合わせて歩くと言ったのに。

 それを聞いて、あの蟻も一瞬喜んだようなそぶりを見せたのに。


 どうして夢の続きの中で、あの蟻は樹液の中に身を投げたんだろう。


「それって、僕じゃ力不足だってことかよっ」


 吐き捨てるように独り言をつぶやいた瞬間、霧島さんの母親に言われたあの言葉が記憶の中に蘇って来た。思いだしたくもない内容だった。

 霧島さんが良くなることは、諦めて欲しい、と。それを期待するのは、不毛だ、と。それって、なんだよ。霧島さんが、もう、治らないからかっ! あのビニールカーテンの垂れさがった病室から、出ることが叶わないまま、いなくなってしまうからかっ!


『もう、無理して、来なくてもいいんだよ』


 辛い。ただ辛い。


『……、今のあたしはきっと空太を苦しめる、傷つける』


 あのときは、違うって、その言葉を跳ねのけられたのに。

 でも、覚悟なんてできるわけないじゃないか。


『あたしはこの部屋から出ることもできない! 空太に触れることもできないんだよっ!』


 霧島さんは、あの病室から出ることは叶わない。僕と霧島さんが触れ合うことは、もうできない。霧島さんはいなくなってしまう。そんな覚悟なんて、できるわけがないじゃないかっ!


『僕は霧島さんのことが、好きだ』


 霧島さんが、いなくなったら嫌な理由も、霧島さんを守ると誓った理由も。やっと見つけることが出来たのに、やっと、伝えることが出来たのに! なんで、もう全部かなわないんだよ! なんで、一緒にデートも行けない! 遊園地も、水族館も、動物園も! 春も、夏も、秋も、冬も。霧島さんは、何処にもいないじゃないか!

 自由なんじゃない。所詮叶わないから。僕が頭を捻って考えるデートプランは、霧島さんが浸っていたい妄想であって、叶えたい夢なんかじゃない。


 だから不毛。不毛なんだ。


「うぁああああっ!」


 錯乱して、スマートフォンを床に投げつけた。画面にひびが入って、破片が空しく転がる音がからからと。画面には、さっきまで真剣に考えていた、デート場所が映っていた。夜景の綺麗な港町。灯が滲んで見える。やがて、画面の光が消えて、両の眼から涙を流す、無様な自分が目に入る。


 出来ない。彼女の全てを受け止めると誓ったけれど。彼女がいなくなってしまうことを受け止められない。


 憎い。僕と霧島さんを隔てる壁が憎い。霧島さんを蝕む病が憎い。僕と霧島さんを、「不毛」にした現実の全てが憎い。そして、僕の中にいつまでも居座り続ける、霧島さんの病気を恐れる自分も、憎い。


 このままどこか、誰にも見えないところで、霧島さんと手をつないでいたい。ふたりで、静かに消えていきたい。


 力なく倒れ込んだフローリングの冷たい床。仰向けになると、ベランダに開けた窓から、蒼い蒼い月が覗いていた。

 この世界の誰からも見えない場所に行きたい。――例えば、月の裏側だとか。僕らはそこで誰にも邪魔されずに、ふたりきりで過ごす。


 ロケットはどうするの?

 空気はあるの?


 そんなことはどうだっていい。どうせ、デートプランは、叶わない空想トリップ。そんなファンタジーに、現実性を求めるのはナンセンス。

 これは、僕が彼女に読み聞かせる寝物語。

 だから、誰にも見えない、誰にも邪魔されない、月の裏なんてどうだろう。


「どうして、そんなところがいいの?」


 病室のベッドで彼女は尋ねた。


「そこなら、こんなものは必要ないだろ」


 僕は、忌まわしいカーテンの裾を掴んでそう答えた。


「……、空太、デートなのにカーテンなんてあるわけないじゃん」


 彼女は悲しい瞳でそう言った。


「これは確かに空想だし、霧島さんが病気である必要なんてない」

「でしょ? そんなこと忘れてしまいたいのに」


 僕だって忘れてしまいたい。でも、そんなことを言いたいんじゃない。僕の本当の願いは――


「でも、僕は、今の霧島さんと一緒にいたい。病気だとか、そうじゃなくて、僕は今の霧島さんと一緒にいたい。ずっと、これからもずっと」


 これは本当の気持ちだ。どんなに変わってしまっても、霧島さんの傍に寄り添いたい。

 病院で預かられた携帯電話にはつながらない。面会が終われば、ふたりの時間は終わる。そして、面会中も絶えずふたりの間にあり続ける透明な隔たり。そんなもの全て取っ払って、僕は今の霧島さんと、手をつなぎたい。キスをしたい。

「素敵なデートだね、空太」


 僕らはその瞬間、本当に月に行ったんだ。誰もいないふたりきりの世界で、病の恐怖も、何もかも忘れたまんまで指先を絡め合う。互いの体温を感じ合いながら、やわらかな唇を重ね合わせた。僕らを隔てる、透明な壁の存在を忘れる白昼夢。それはやがて、まどろみに変わった。


 僕に似合わない詩的な夢だった。霧島さんは気に入ってくれたかな。


 夢から覚めると、霧島さんは、ベッドの上で窓の外をぼうっと眺めていた。「おはよう」と、笑った彼女の背後で夕日が沈む。

 眠っていたのは、僕だけだった。彼女の目元にくっきりと表れているクマが、それを僕に教えた。結局、気に入ってもらえなかったのかな。僕の寝物語。


「霧島さん、睡眠薬は飲んでるの?」

「……もちろん、でもね。どんどん効かなくなるの」


 彼女は抑揚のない声でそう言った。マニュアルに書いてあるから、そう言ったような言い方だった。


「デート、良かったよ。久しぶりに詩の中の世界に浸ったみたいだった。てっきり空太のことだから、近くの遊園地とかかと思ってたけど、いい意味で裏切られた」


 最初はそれを考えていたけれど、途中でやめた。そこには、都合のいい霧島さんしかいない。それは、僕のことも彼女のことも、傷つけてしまうだろうから。

「嬉しかった。空太が、今のあたしと一緒にいたいって言ってくれたこと」


 その言葉が僕も彼女も救ってくれると思っていた。僕に空想のデートプランをせがんだ彼女が求めたもの、それは現実を忘れて浸っていたい夢。それは半分正解で、半分は浅はかな思い違い。


「でもね。とっても悔しいけれど、あたしは、空太みたいになれない。認めたくないけれど、あたしは、お母さんと似ている」


 空想が現実に勝るはずなど、最初からなかった。たとえどれだけ、彼女がそれを求めていようとも、現実は変わらず僕らの世界にあり続ける。


「な……で、なんで……、あたしは病気なのよ!」


 彼女は、眼の色を変えて顔を青ざめさせる。頭をかきむしり、髪を引っ掴んで、引きちぎった。


「いやっ! こんな自分、嫌っ! 嫌なのっ!」


 息が荒い。ベッドをきしませて、壁をどんどんと右手で叩く。まだ治っていない左脚や、左腕のことなど度外視して、彼女は獣になって暴れ、のたうち回った。僕は初めて、彼女の発作を目の当たりにした。

 幸い、異変に気付いた看護婦が駆けつけ、安定剤が迅速に投与された。僕は安堵したが、看護婦の話では、発作の回数がこのところ増えてきたと。

 日はすっかり沈んで、外は真っ暗になった。霧島さんは、電源が切れたように眠っている。


「もう面会時間は、過ぎていますが」


 きまり悪そうに話しかけてきた看護婦に、僕は懇願した。


「お願いです。このまま、ここにいさせてください」


 僕が見た霧島さんは、夜の霧島さんだ。光を失って、誰にも会えないまま、ひとりで苦しんでいた僕の知らない霧島さん。そんなものを見てしまって、帰れるわけがない。十年ぶりくらいに駄々をこねたかも知れない。でも、そんな我儘は受け入れてもらえなかった。彼女が病気なのも現実ならば、彼女と僕を隔てるのもまた現実だった。


 肩を落として、夜の霧島さんを置いてきぼりにする。僕がいなくなったことで、また発作を起こしたりするんじゃないだろうか。


「そら……た……。まって……」


 ちょうど病室のドアに手をかけたとき、背後からか細い声が聞こえた。


「今度……は……、背を測って来て。背比べだよ。忘れ……ないで……ね」


 それが、次のお見舞いまでの宿題だった。

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