明日をつなぐ言葉
黒板の上を白いチョークがかつかつと、僕の嫌いな数学の問題を書く。二次関数が描く放物線を、座標軸が串刺しにした。放物線が、y軸と交わる点の座標を求めなさい。先生は尋ねた。y=0を代入する。そして、二次方程式を解かないといけない。僕は二次方程式が苦手だった。解の公式を思い出せない。額に手を当てて、文字通り頭をひねっていると、右肩に暖かい手が当たった。
僕は右隣の席を見やる。霧島さんが、笑っていた。マスクもつけていない。顔は傷だらけじゃなくて、綺麗で健康的な肌の色をしている。線の整った手のひらを蝶のようにひらひらと。骨を折ったはずの左手だった。
「わからないのー。教えてあげようかー?」
そして彼女は歌った。昨日までのことが全て嘘だったように。彼女は立ち上がる。すらりと高い、彼女の凛とした立ち姿が、僕の目の前に現れる。
「霧島さん、授業中だよ」
いろいろと疑問はあるが、何よりも授業中に立つという行為を指摘した。
「な~んのことっ」
彼女が笑った瞬間。教室は授業から飛んだ。呆気に取られて口をあんぐりと開ける僕。僕の目の前で、教室は舞台の張りぼての景色が倒れるようにして、様変わりした。あの日ふたりで弁当を食べた屋上が、図らずも僕が彼女に「綺麗だ」と言った屋上が現れた。教室の抜け殻の外へと、彼女は僕を連れ出した。
「ちょっと、霧島さんっ! ケガは?!」
華奢な体に似合わない強い力で、僕の腕を引っ張る彼女の左手。コンクリートの地面を飛び跳ねる左脚。昨日体育館の屋根から飛び降りたときの傷が彼女にはない。
「な~んのことっ?」
「なんのことって、霧島さんは骨折で入院したんだよっ! それに……」
そこで僕は口をつぐんでしまう。サスペクトパシー。その病名を彼女に自覚させることにためらいを覚えた。いや、違う。僕は今の彼女におびえていたんだ。
「どうして、そんなに震えているの?」
すべてが嘘になってしまった世界。すべてが望み通り。霧島さんの肌は、傷だらけじゃない。左手も左脚も痛々しい包帯なんて巻かれていない。学校に来て、僕の隣で歌ってくれる。笑ってくれる。彼女は、僕が望んでやまない、都合のいい存在。
「難しいことは考えなくていいの。すべてが思い通りなら、そらたも苦しまないから」
そうだ、苦しみたくなんてない。彼女の病気で思い悩みたくない。元気で綺麗な彼女と手を繋いで笑い合いたい。
だけど、それは都合のいい、僕の空想。
だけど、それに抗うことは、僕の痛み。
「こらっ、うとうとするな」
先生の声で、僕は再び数学の授業に舞い戻る。ノートには解きかけの問題が。右隣の霧島さんの席を見やる。彼女はそこにいない。
僕が空想に抗おうが、甘えようが、現実は変わらずそこにあり続ける。そして、その現実を救う方法は誰も知らない。昨夜、僕が情報の海の中で必死にもがき続けて得た答え。
一番不安におびえているのは、患者本人。知人や友人、家族は、それなりのことを覚悟しておいた方がいい。
たった、たった、これっぽっちだ。失意に塗れる僕には、先生の言葉は届いていなかった。脳みそを摘出した僕は時の流れに身を任せて、淡白な時間を過ごした。鉛色に濁った瞳でため息を吐く。
「あいつがいないと、いつもそうだな」
授業が終わると、左隣の狩谷が馴れ馴れしく話しかけてきた。どうしてこいつは、僕のことに首を突っ込みたがるんだろう。あからさまに機嫌を悪くして、口をへの字に歪める。
「なんだよ、心配なんじゃないのか。骨折で入院しているんだろ」
しかし、狩谷は、いつものように霧島さんと僕の関係を茶化すような発言はしなかった。今度は口が、ぽかんと開いてしまう。
「なんだよ、その顔は」
僕の腑抜けた面を、狩谷は笑った。
「いつもみたいに、おちょくってくるんじゃないかと」
「そんなこと根に持ってるのかよ」
へらへらしている。やっぱり気に入らない。こいつとは調子が合わない。そんな文句を頭の中に並べていた。
「今日の放課後どうすんだよ」
「霧島さんの入院している病院にお見舞いに行く」
「へえ、何処に入院しているんだよ」
近くの病院だと答えた。感染系の病棟というと、植物や食べ物などの見舞い品は注意を受けるかもしれないと。病棟に入る前に持ち込み検査がある場合があるから、気を付けた方がいいとも教えてくれた。なんだか拍子抜けだ。
「見舞い品は、考えているのか?」
「いや、特に……」
「なんだよ、お前の彼女じゃないのかよ」
「なっ……」
彼女が大切な人なら、なにかプレゼントしてやれと。純朴そうな見た目通り、気の利かない奴だとも言われた。助言をしているのか、悪口を言われているのか。デリカシーのない奴だとは思うが、悪い人ではないのか。僕は彼の表面上だけを読み取って勝手に嫌っていたのかもしれない。
そんな気の迷いで、僕は狩谷と百貨店によることになった。学校から家までの帰り道からは大きく外れるが、帰れなくなったり、病院の面会時間に間に合わなくなったりするような距離ではない。
むしろ、病院までの道のりにあるくらいだ。少し灰色がかった六階建ての低めのコンクリートビル。母が子供の頃は屋上に小さな遊園地があったそうだ。今は取り壊されて更地になって、関係者以外立ち入り禁止だ。今は安全上の理由で使われていない回転ドアには、黄色いテープが貼られている。時代の亡骸に挟まれた自動ドアを、僕らはくぐり抜ける。
「あいつは何が好きなんだ」
「詩を書くことかな」
「ロマンチストな文学少女ってかんじだものなあ」
「まあ、それで合ってるよ」
狩谷と、霧島さんのことを話す。なんだか変な気分だ。
好きなこと、歌を歌うこと。
好きな食べ物、コロッケと甘いもの。
好きな花、出逢いのきっかけになったガザニア。
一緒にこのデパートに行った。
カラオケに行った。歌が下手だと笑われた。
ハンバーガーを頬張った。
公園を歩いた。笑った。
そんな惚気話を狩谷に垂れ流しにしていた。
「本当に、お前は霧島さんが好きなんだな」
だから、そんな言葉を言われたのは当然だった。でも、それを誰かに言われたことはなかった。
「安心したよ。この前のお前、思いつめているみたいだったからな」
霧島さんを突き放すようなその言葉を、僕は狩谷に吐いてしまった。あのときの不安定な僕を、心配してくれていたのか。彼との間に設けていた自分勝手な堤防が、急に馬鹿らしく思えてきた。
「あのときはごめん……」
「俺に謝るなよ。俺は霧島さんの何でもないからなっ。それで傷つくのは霧島さんのほうだ。だから、好きな人なら大切にしろ」
思わず謝ってしまった僕を彼は、そう言って諭した。自分がひどく子供のように思えた。
創作が好きなら、ペンとレターセットとかがいいんじゃないのか。そう提案されるがまま、万年筆の外身を装った、少しお洒落なインクペンと、便箋を買った。最終的に選んだのは僕でも、きっかけをくれたのは彼だ。文房具店の袋の取っ手を僕は、握りしめた。自分が彼に向けてきた態度を恥じながら。
「今日は、ありがとう」
不器用な唇がそっと動く。気にするなと返された。彼が手に提げていた袋には、水着姿のお姉さんが表紙に映った、週刊誌が入っていた。相変わらずだけど、もう嫌とは感じなかった。
彼と別れ、百貨店を後にする。そこからバスに乗り、バス停を三つほど。窓から公園の梅の花が見えた。ポケットからスマートフォンを取り出し、日付を確認する。二月が終わろうとしていた。いよいよ春が近づいてきた。
僕は霧島さんと、桜の花を見ることが出来るだろうか。たとえ、病室の中でもいい。
そんな淡い夢を、人いきれの中に忍ばせた。
***
感染病棟は病院と渡り廊下でつながっている。二重になった自動扉が、渡り廊下の前後にあって、空気を遮断していた。一階部分に看護婦の人たちが常駐する面会窓口があって、見舞客用の高性能マスクが取り揃えられていた。一枚で数百円するような代物、患者名を伝えると購入するように案内された。霧島さんが入院している階では、高性能マスクの着用が義務づけられているとのこと。看護婦の応対はにこやかなものだったが、壁を感じずにはいられなかった。
耳にゴムをかける。少し締め付けがきつい。上部にあるワイヤーを鼻の形に合わせて折り曲げて、皮膚とマスクの間に隙間ができないようにする。自分の呼気を吸うようで、少し息苦しい。エレベーターは六階で止まった。降りたところにすぐ、ガラス扉があって、その前に看護婦と看護師が立っていた。鞄の中を簡単に調べられた。見舞いの品があるかどうかも確認された。
「あの……、これを彼女に渡そうと思ってたのですが」
便箋とインクペンを見せた。インクペンは万年筆ではなく、ペン先もフェルト製の柔らかいものであることを説明した。
持ち込みは許可が下り、看護婦がカードキーでガラス戸を開け、僕を病棟の中へと招き入れた。精神科病棟では、刃物ではなくても金属類の持ち込みは禁止されているという狩谷の言葉は大いに役に立った。これで彼女にプレゼントを渡すことが出来る。
思えば、一緒にどこかに行ったり、何かを食べたりしたことはあったが、こうして贈り物をするということは初めてかも知れない。少し緊張して顔が火照ってくるのを感じる。
僕を案内する看護婦の人は、小柄で背丈は僕よりも低かった。霧島さんの高い背丈が恋しくなる。でも廊下のつきあたりには、霧島さんが入院している部屋がある。
廊下を行き交う人の数はひどく少ない。昨夜、ネットで見た記事の内容が思い出される。孤独感、閉塞感。それは健常者との生活から切り離された静寂として、僕には感じられた。僕と看護婦の足音だけが廊下に響く。
「霧島さん、面会ですよー」
個室の引き戸ががらがらと音を立てて開いた。
中には透明なビニールカーテンで仕切られた白いベッドが鎮座していた。霧島さんは、パジャマ姿で壁にもたれている。痛々しい包帯で巻かれた左脚はハーネスで固定されて、天井からぶら下げられている。左手も固定具をつけられている。そこにいたのは、間違いなく現実の彼女。僕の目の前で、体育館の天井から飛び降りた彼女だ。
看護婦が病室を去ったあと、妙な沈黙が続いた。僕は耐えきれず、口を開く。
「……、霧島さん」
「あたし、死ねなかったのね」
その言葉を聞いて、面食らわされた。どこかで覚悟をしていたことだけれど。
「僕は、霧島さんが無事でよかったよ」
「そう。前にも言ったでしょ。あたし、発作的にとんでもないことをするって。あたしね、自分が飛び降りる少し前から記憶がないの。病室で目が覚めたときに、包帯でぐるぐる巻きにされた傷だらけの自分がそこにいて。痛くて痛くて、わけが分らなかった。今のあたしって、無様よね」
僕は顔を俯けていた。だけど、僕の眼には、彼女の悲しげな瞳が見えた。僕の前で彼女は、歌うようにではなく、ため息を吐くようにして言葉を吐く。悲しくて音色だった。
「空太も知っているんでしょ? あたしの病気はサスペクトパシー。看護婦やお医者さんは、あたしには黙っているつもりだろうけど」
黙っているつもりだった病名を吐いたその声は、失意に塗れていた。僕は必死に言葉を探すけれど、見つかりそうにない。
天井から垂れ下がるビニールカーテン。
その奥に見えるポータブルトイレ。
壁にはめ込まれた液晶モニター、ベッドの上に出された机には何もない。
どこに視線を動かしても、僕が求める答えなんてない。
「空太……、ねえ……」
黙ったままで、彼女の曇っていく顔を見つめていた。そんな僕に、彼女は今にも壊れてしまいそうな歪んだ笑みを向けた。
「もう、無理して、来なくてもいいんだよ」
「む、無理なんかしてないよ」
「……、今のあたしはきっと空太を苦しめる、傷つける」
声が掠れている。
「違うっ」
「本当だよ、今のあたしといても空太に良いことなんて何もない」
「そんなんじゃなくて、霧島さんには、いろいろもらったらから。霧島さんが苦しんでいるときは……」
「恩返しみたいな言い方しないでっ! 空太のそんな顔なんて大嫌いだバカッ! 病気のあたしなんて、一緒にいても、そんな顔させることしかできないじゃないっ! あたしのこと、嫌いになってよ! もう、こんなあたしのところに来ないでよっ!」
そうか。僕が黙っているから、彼女は不安になってしまうんだ。僕がまだ、病気の彼女を怖がっているみたいに思えてしまうんだ。
いや、事実まだ心のどこかでは怖い。彼女の病気が進行して、彼女の中の彼女が失われていく。でもそんな恐怖はきっと、彼女の方が、ずっと強く感じているはずだ。
「霧島さん」
僕が折れている場合じゃないな。
「あのとき、霧島さんは最高に幸せだと言った。そして飛び降りた。あのときの霧島さんは、時を止めてしまいたかったんだと思う。でもまた時は動き出している。今のこの時は霧島さんが望んだものじゃないのかもしれない。でもそれでも、僕は霧島さんに生きていてほしいんだっ!」
「どうして、そんなこと言えるのよっ! あの時以上がやって来るだなんて言えるのよっ! あたしはこの部屋から出ることもできない! 空太に触れることもできないんだよっ!」
忌まわしい二人の間を遮断する透明なカーテンを、彼女は撫でた。
僕は彼女の線の細い手のひらに、自分の手のひらを重ね合わせる。ビニールカーテン越しの彼女の温もりが僕に伝わってきた。
「大丈夫だよ。きっと……」
こんなことを言うのは無責任かもしれない。でも言葉を選んでいたら、きっと彼女は、また不安になってしまうから。
何が大丈夫だなんて、誰にもわかるものか。
それぐらいの気持ちで、涙ぐむ彼女の瞳を見つめた。黙りこくる彼女に、僕はデパートで買った便箋とインクペンの入った小包を、ビニールカーテンの隙間から手渡した。
「これは……?」
「ペンと便箋だよ。これで入院中でも詩が書けるだろ」
目を細めて、噛みしめるような笑みで、彼女は僕からもらった小包を抱いた。まるで赤子を産んだ母親のように、頬を擦り寄せた。
「なんで空太はそんなに優しいのよ。あたしはこんなに、不甲斐なくなっちゃったのに」
何も見えなくなっている暗闇の中の彼女に、僕が与えられる理由はたったひとつ。
恩返しだとか、そんな言葉では置き換えようのない、たったひとつの理由。
「僕は、霧島さんのことが、好きだ」
その理由を聞いて、霧島さんは再び涙の川を流した。窓から夕陽が差し込んで、眩いばかりに僕らを照らしていた。
「ありがとう、空太」
彼女の笑顔がより一層、輝いて見えた。
大丈夫だよ。霧島さんは不甲斐なくなんかない。僕の目の前で、詩を書いて、笑ってくれればいい。たとえ笑えなくなっても、そこにいるだけでいい。生きているだけでいい。それだけで、僕は、幸せだ。
だから、今を噛みしめて、何よりも大切にしよう。
「あたしも好きだよ、そーらーたっ」
霧島さんがいる明日は、もうそんなに多くはないのかもしれないから。




