“待って” の手
昼下がりの光が、森の木々を透かして落ちてくる。
ゆっくりと指先が動き、
エレノアはまばたきをしながら目を覚ました。
(……あれ……寝ちゃってた……)
体も魔力も軽い。
よく眠れた証拠だった。
けれど――
起き上がったエレノアの視線の先には、
“奇妙な光景”があった。
ルベルが、
背を向けたまま、ひとりで座っている。
距離が、いつもより遠い。
「ルベル……?」
呼びかけると、
彼の肩がわずかに強張った。
それでも振り返らず、背を向けたまま、
手のひらを弱々しくエレノアの方へそっと向け
かすかな声だけが返る。
「…………エレノア。
あまり……近づかないで。
今は……少し……待って」
(え……?)
いつもなら
「大丈夫」「こっちへ」と言ってくれるはずのルベルが、
まるで火傷を避けるように距離を取っている。
それがエレノアには
不安の形に見えた。
「どうしたの……?
どこか痛い?
疲れた?
魔力、乱れちゃった?」
心配が魔力に混ざり、
エレノアの魔力が
あたたかい風のようにルベルへ流れていく。
甘い香りのような、
人を安心させる柔らかい魔力。
その瞬間――
ルベルの背がびくり、と震えた。
(……え……?)
反応が大きすぎる。
まるで触れられたみたいな敏感さ。
そして今度は、
はっきりとした声が返ってきた。
「……エレノア、ほんとに……近づかないで……
もう少し……待って……
落ち着くまで……」
「落ち着く……?
え、えっ……な、なんで?
どうしたの?」
エレノアが一歩踏み出しそうになると、
ルベルの右手がまた小さく上がる。
“待って” の手。
でも、
その手は少し震えていた。
(……何……?
どうしてそんな……苦しそうなの……?)
エレノアは思わず息を呑んだ。
彼が無理をして距離をとっているのは明らかだった。
優しさでもない。
拒絶でもない。
ただ――
“近づかれたら自分が抑えられない”
そんな必死の理性が
背中全体から伝わってきた。
「……ルベル……?」
静かに問いかける。
すると、
背を向けたまま、彼が絞り出すように言った。
「エレノアの……寝顔が……危なかった……
今、顔を見たら……また……本能が……揺れる……
だから……少し……待ってほしい……」
(……っ……)
エレノアの頬に、
一気に熱がのぼった。
けれど、
心臓の奥がじんわり甘くなる。
それでも、
ルベルは真剣そのもの。
背中で、
必死に魔力を抑え、
震える本能を押し込めているのが分かる。
エレノアはそっと笑った。
(……そんなに私の寝顔、危険だったんだ……)
そして、
ほんの少しだけ魔力を弱め、
優しく彼の背中に語りかけた。
「……わかった。
待つよ。
落ち着くまで、ここで待ってる」
ルベルの肩が、
ふっと軽く下がった。
安堵と、
まだ残るざわつきと、
混ざりきれない感情が
ゆっくり沈んでいく。
エレノアは敷物に膝を抱え、
背を向けているルベルを見つめた。
(……そんなに、私のこと……)
胸が
やわらかく
ほどけていく音がした。
森は静かで、
風が落ち葉を揺らし、
二人の間に
そっと影と光を落としていた。




