差し出された手
村を出て、家へ向かう森の小道に入ると
ざわめきから解放された空気が広がった。
それなのに――
二人の間には、
商店での出来事と“考えてはいけない言葉”が残した
微妙な沈黙が漂っていた。
エレノアは買い物籠を胸に抱きしめ、
ほんの半歩だけルベルから離れて歩いている。
(……近づきすぎたら、また変に意識しちゃうし……
でも、離れすぎても……なんか変だし……)
そんなことを考えながら歩いていたせいで、
足元を見るのを忘れていた。
森道の段差にできた“くぼみ”。
その小さな窪みに、
エレノアの足先が―― 引っかかった。
「――わ!」
身体が前のめりに傾く。
籠を抱えていたせいで手が出せない。
その瞬間。
ガシッ
ルベルの籠が地面に転がり落ちた音がした。
そして、
それより速く――
エレノアの腰が
大きくて温かい腕にしっかりと支えられた。
「エレノア!」
抱き寄せるような強さではなく、
倒れないように支える正確な力加減。
だが、その距離は
避けたくても避けられないほど近かった。
エレノアの息が止まる。
「……大丈夫?」
ルベルの声は驚きと焦りが混ざっていた。
そして、
エレノアを護った自覚が胸の奥に波打っているのか、
魔力が少しだけ熱を帯びている。
「だ、だい、じょうぶ……!
ごめんなさい、足元ちゃんと見てなくて……!」
ルベルはゆっくりと腕をほどいた。
けれど、その手はまだ震えていた。
(……怖かったんだ……
私が転ぶと思って……)
エレノアの胸に
じんわりと温かさが広がる。
落ちた籠を拾おうとすると、
ルベルが手を伸ばして先に拾い上げた。
「エレノア……危ない道は……
俺が先に歩く」
「え、あ……うん……」
「それと……」
ルベルは
一度言葉に詰まり、
少しだけ視線を落とした。
そして、
覚悟したように――
そっと片手を差し出した。
「……足元が悪いところは……
手を出す。
繋ぐかどうかは……エレノアが決めていい」
(…………)
胸が、跳ねた。
昨夜の距離事件。
魔力が揺れた今日の朝。
店主夫婦の誤解。
つまずいた自分。
全部が重なって――
彼がどれだけ“線を越えないように”
自分を守っているのかが伝わってくる。
だから、
彼は自分から握らない。
主の意思を尊重し続けるために。
差し出された手は、
触れてもいないのに
優しい温度を持っていた。
エレノアは、唾をのんだ。
(繋ぐかどうか……
私が決めていい……?)
迷う。
でも――
さっき転びかけた恐怖と、
支えられた温かさが残っていた。
「……ありがとう。
じゃあ……その……危ないところだけ……」
おそるおそる、
差し出された手に指先をのせた。
ほんの一瞬だけ。
触れたのか触れていないのか
分からないくらいの軽い接触。
魔力がふわりと揺れた。
だがルベルは、
それ以上握り返さなかった。
ただ、
“エレノアが離したら離れる”
という静かな姿勢で、
手のひらをそこに置き続けた。
(……本当に……
私が合図を出さないと動かないんだ……)
その気遣いが
胸の奥に優しく沁みていく。
二人はゆっくり歩き出した。
指先は触れたり離れたり。
そのたびに魔力がちいさく揺れた。
距離は変わらない。
でも、
心の距離だけが
昨日よりほんの少し縮まっていた。




