生活能力ゼロ
暖炉の火がぱちぱちと木をはぜさせ、ルベルの影がゆらゆらと壁に揺れていた。
ローブに身を包んだ彼は、静かに炎を見つめていたが……どこか違和感がある。
じっと、動かない。
不思議に思ったエレノアが声をかける。
「……寒い、ですか?」
ルベルはゆっくり振り返り、首を傾げた。
「さむい……って、何?」
エレノアは固まった。
(え?そこから?)
ためしに別の質問を投げてみる。
「喉……乾いてたりしませんか? お水……とか」
「喉……? かわく……?」
反応が完全に空っぽだ。
(ど、どのくらい記憶がないの……!?
言葉は分かってるのに……意味の理解がズレてる……)
ルベルは言語能力も会話能力もきちんと持っている。
声も落ち着いていて、表情も大人の男性だ。
けれど中身が空白すぎる。
エレノアはすがるように、もっと基本的なことを試してみる。
「えっと……それ、知ってます?
これは……マグカップです」
テーブルの上のマグを持ち上げて見せると、ルベルは真剣な目で観察したあと――
「まぐ……かっぷ……?」
恐る恐る指先で触り、
「これ……飲むための……器?」
「そ、そうです!」
「なるほど……」
妙に素直で吸収が早い。
(いや早すぎる……! 今の二言で理解するの?)
続いて、暖炉の火を差してみる。
「これは……火。あったかいものです」
「ひ……」
ルベルは炎に手を伸ばそうとした。
「ちょっと待って!触ったらダメ!!」
「……だめ?」
「熱いんです! 触ると痛いんです!」
エレノアが慌てて手を掴むと、ルベルはぱちくりと瞬きをした。
「……痛い、は分かる」
「え、分かるんですか?!」
「うん。言葉と行動の概念は……どこかにあるみたいだ。
でも……知っている“もの”が、あまりに少ない」
(……あ、これは完全に生活能力ゼロ……!
言葉と理屈は分かるけど、世界の“実物”を知らない……!
ってことは……身の回りの全部、教える必要がある……?)
ルベルは暖炉の揺れる炎を見つめながら、静かに呟いた。
「……知らないものばかりだ。
でも、エレノアが教えてくれたら……覚えられる気がする」
その言い方が妙に素直で、そしてどこか胸の奥をつく。
(うっ……! なんでそんな反則みたいな言い方するの!?
これはなんというか……幼児教育というか……いやイケメン育成……ややこしい……!!)
エレノアは頭を抱えながら立ち上がった。
「えっと……じゃあ……生活の基礎から、全部、教えます……
教えないと絶対生活できない気がするので……」
ルベルはきょとりとしたあと、微かに微笑んだ。
「うん。エレノアが教えてくれるなら、全部覚えるよ」
その瞳の奥で、かすかな光がまた揺れた。
彼は空白で、この世界のすべてを知らず、
そしてその“最初の先生”が――自分。
(責任……重大すぎる……!)




