胸が苦しい
リビングの真ん中で、
私はそっと胸を押さえていた。
魔力の線をほどいた後も、
胸の奥がじんわり熱い。
呼吸がいつもより浅い。
手の先がまだ温かい。
(……落ち着かない……)
キッチンからは、
小さく皿の触れ合う音が聞こえてくる。
ルベルは、明らかに“逃げた”。
近づきたくて、
でも近づいたら危険で、
それを自分でも分かっているから。
私は分かっている。
あの一歩。
止まった足。
(……近づこうとした……
でも、止まった……)
それを思い出すだけで、
心臓が妙に苦しくなる。
怖かったはずなのに。
驚いたはずなのに。
あの一歩には、
恐ろしいほどのまっすぐさがあった。
気づけばソファに座り込み、
膝を抱えてしまっていた。
(……どうして泣きそうなんだろ……)
寂しいわけじゃない。
むしろ一人の時間は得意だった。
はずなのに。
今、
扉一枚向こうにルベルがいるというだけで、
どうしてこんなに胸が苦しいんだろう。
「……会いに行けばいいじゃん……」
自分に言い聞かせても、身体が動かない。
だって近づいたら、
きっとまた魔力が揺れる。
それに――
ルベルが、困る。
(……私、どうしたらいいの……)
キッチンの灯りが揺れる。
夕方より少し濃い匂いが漂い始めた。
きっとルベルが夕食を作っているのだ。
行きたい。
声をかけたい。
でも、行けない。
理由は簡単。
ルベルを意識しすぎて、
距離を間違えそうだから。
魔力も心も、
どちらも揺れやすい状態で
彼のそばへ向かう勇気はなかった。
扉の向こうにいるのは、
召喚獣であり、
弟子であり、
それ以上の“何か”で。
その“何か”の輪郭が見えないからこそ、
今夜は動けない。
(こんな沈黙……
はじめてかもしれない)
魔力の揺れも、心の揺れも、
どちらも止めることができないまま――
静かな夜が、
ゆっくりと二人の間に降りていった。




