指先が覚えているもの
夕方。
窓の外は、昼と夜の境目みたいな色をしていた。
少しだけ赤くて、少しだけ青くて、森の影が長く伸びている。
リビングのテーブルには、さっきまで私とルベルが一緒に片付けていた名残がある。
整えられた本、きちんと揃えられた椅子、窓際で揺れている薄いカーテン。
私は椅子に座り、膝の上で自分の両手をぎゅっと握りしめていた。
(……緊張してる)
魔力の練習なんて、いつものことだ。
魔術師なら、ひとりでも毎日のようにやっている。
でも今日はちがう。
“ふたりで”だ。
(……手を……繋いで、魔力を巡らせる)
それ自体は、初めてじゃない。
一度目は、ルベルが生まれた直後。
魔力の流れを感じるために、両手を繋いで循環させた。
「初心者だからね
まずは流れを感じるために
両手を繋いで魔力を循環させてみて」
あのときは、ただの訓練だった。
“弟子”を教える師匠の気持ちに似たものを、どこかで真似していた気がする。
緊張はしたけれど、どこか落ち着いてもいた。
二度目は、封印術のとき。
危険な残滓を押さえ込むために、魔力を合わせて陣に流し込んだ。
怖くて、必死で、余裕なんてまったくなくて。
ルベルの手を握ったのか、握られたのかもよく覚えていない。
あとで思い出したときには、ただ「助かった」「生きてる」ってことしか頭に残っていなかった。
だから――
(“手を繋ぐこと”自体は、今さらじゃないはず……なんだけど)
胸の奥で、魔力がじわっと騒いだ。
あのときと、今はちがう。
生まれたばかりのルベルは、まだ“何も知らない”存在だった。
封印のときのルベルは、“一緒に危険に向き合う相棒”みたいな感じだった。
今のルベルは。
家事も、片付けも、魔道具の整理も覚えて。
私が動けば自然に手が伸びて。
私が困る前に、手を貸してくれるようになって。
そして――私の魔力に、過敏になっている。
ちょっと手が触れただけで反応して。
呼吸にまで反応して。
私が揺れるたびに、あの赤い瞳が細くなる。
(……あの状態で、手を繋いだら)
想像してしまって、慌てて頭を振る。
「落ち着いて、私……
これは魔力制御の練習。
そう、あくまで練習。訓練。魔術の一環。うん」
口に出してみても、心臓は落ち着いてくれない。
だって――
封印のとき、確かに私はルベルの手を握った。
あのときは怖すぎて、それどころじゃなかったけど。
今になって思い出してみると、指の長さや、掌の温かさや、
“あ、この人はちゃんとここにいるんだ”って思った感覚まで
くっきり蘇ってくる。
(指先が、覚えてる……)
覚えてほしくなんてなかったのに。
ちゃんと、覚えてしまっている。
だからこそ、今になって“手を繋ぐ”という単語が
まるで別方向から心を殴ってくる。
(昔の師匠との練習だって、手を繋いだことあるのに……
なんでこんなに違う感じがするんだろう)
師匠とやっていたときは、安心だった。
教えてもらっている安心。
見守られている安心。
ルベルとだと――
安心と、もうひとつ、“ざわざわ”が混ざる。
彼の魔力が私に寄るのか。
私の魔力が彼に寄るのか。
その境目が、封印のせいで少し曖昧になっていて。
(……いっそ、あの時と同じように“必死な状況”の方が楽だったのかも)
怖いのは、命の危険じゃなくて。
静かな部屋で、落ち着いて座って、
「じゃあ魔力巡らせてみましょうか」と言い出さなきゃいけない、この時間だ。
一度、両手を握りしめてから離してみる。
掌がじんわり熱い。
その熱に、過去の感触が重なる。
封印陣の上で掴んだ手。
魔力が重なって、押し戻されて、
それでも離さないように必死で力を込めた。
(あれも、手を繋ぐ練習みたいなものだったのかな……)
今さらそんなことを考える自分に、苦笑いが漏れた。
「……もう、一回やってるんだから、大丈夫。
二回目みたいなものだよね。うん。
……たぶん。きっと。おそらく」
自分で言っておきながら、まったく説得力がない。
だってあの頃のルベルは、
私の魔力の揺れに気づいても、
ここまで顔に出すような子じゃなかった。
今は違う。
嬉しいと、素直に嬉しそうにする。
褒められると、分かりやすく機嫌がよくなる。
私の魔力が揺れると、あの目をする。
(あの目のまま、手を繋ぐのは……
……反則じゃない?)
テーブルの上のハーブティーに手を伸ばしかけて、やめる。
また呼吸に魔力が乗ったら、ルベルが反応してしまう。
(ほんと、どうしてこんな面倒な体質になっちゃったの、私もルベルも)
でも同時に――
あのとき封印を一緒にやっていなかったら。
あのとき、手を離していたら。
今ここに、彼は立っていなかったかもしれない。
窓の外を見れば、夕暮れの色が少し濃くなっていた。
そろそろルベルを呼ばないといけない時間だ。
魔力練習。
距離の確認。
“共同の制御”。
私は胸に手を当て、深呼吸を一度だけする。
揺れすぎないように、慎重に。
それでも、たぶん少しは揺れる。
(……大丈夫。
封印のときだって、ちゃんとやれた。
ルベルも、暴れなかった)
むしろ、あのときは
私の方がよほど無茶をしていた。
今のルベルは、
自分で自制しようとしてくれている。
だったら、私も――
少しだけ、彼を信じてみてもいいのかもしれない。
「……よし」
小さく呟いて立ち上がる。
指先はまだ、あの温度を覚えている。
心臓は相変わらずうるさい。
それでも私は、
廊下の先、彼が待っている場所へと歩き出した。
今日は、“魔力の練習”をする。
ついでに、“一緒にいる覚悟”も、
少しだけ練習してみようと思いながら。




