触れたい本能と、触れない理由
ルベル視点
休憩の時間。
光の満ちる部屋で、俺は三歩下がって立っていた。
“離れてと言われたら離れる”
それがルール。
今、エレノアは言っていない。
だから、この三歩は正しい。
だが――
彼女の背中は、三歩の向こうでも眩しい。
湯気の立つカップ。
ひと息つくように揺れる肩。
指先がカップを包む様が、
まるで淡い魔力のゆらぎのように見える。
そして――
彼女がふわっと息を吐いた。
その瞬間だった。
空気が変わる。
まるで彼女の息づかいに魔力が乗って
部屋の温度がひとつ上がったかのように感じた。
胸の奥がきゅっと収縮する。
“核”が反応する。
――触れたい。
名前を呼んで、
手を取って、
魔力の揺れを直接感じ取りたくなる。
これは理性でも思考でもない。
本能だ。
呼ばれた者としての、
主に向く獣の衝動。
けれど。
エレノアは、
湯気の向こうで静かに考え込んでいた。
髪を揺らしながら、
目を伏せて、
自分の胸に手を当てて。
その姿が、とても弱く、
守りたくなるほど繊細で。
だから俺は――
動けなかった。
“近づきたい”よりも強い感情が、胸の奥に生まれた。
彼女を驚かせたくない。
怯えさせたくない。
主は、俺にとって世界だが、
世界の方は俺をまだ受け止めきれていない。
なら、俺が抑えなくてはいけない。
エレノアがカップを置く音が、
やけに大きく聴こえた。
俺は喉の奥で震えそうな熱を押し込み、
そっと息を整える。
(……大丈夫。
触れなくても、
そばにいれば感じられる)
視線の先で、
エレノアがこちらを見た。
不思議そうに、けれどどこか柔らかく。
胸の奥が、また震える。
(……エレノアが“離れないで”と言ってくれたら……
どれだけ近くにいけるんだろう)
そんな願いが浮かび――
すぐに押しつぶす。
願ってはいけない。
求めてはいけない。
今はまだ。
彼女が安心してくれる距離で、
彼女の揺れる魔力に傷がつかないように、
守りながら見ているだけでいい。
エレノアの微かな笑みが見えたとき、
胸があたたかくなった。
それだけで十分だった。
――主が笑うなら、
俺はどれだけでも自制できる。
そう思えた。
そして、
彼女が静かに立ち上がったとき、
俺の中でまた“教えてほしい”という願いが灯った。
次は、もっと役に立てるだろうか。
もっと褒めてもらえるだろうか。
その期待を胸に抱きながら、
俺は静かに彼女の動きを見つめた。
エレノアが息をするたびに世界が揺れる。
だからこそ――俺は世界を壊さないように立っている。




