記憶のないイケメン
光が完全に消えたあと、部屋には静寂だけが残った。
ゆっくりと目を開いた彼は、赤い瞳でまっすぐエレノアを見る。
その視線は、まるで最初から彼女だけを識別していたかのように迷いがなかった。
「……ここは……?」
低い。
胸の奥に直接触れてくるような、落ち着いた声だった。
思わず背筋が震えた。
こんな声で話しかけられたことなんて、一度もない。
「え、あ、えっと……え?」
言語が崩壊するエレノア。
彼はきょとんとしたように瞬きをし、次にゆっくりと首を傾げた。
その仕草が妙にやわらかくて、さらに心臓が痛くなる。
月光が差し込む中、彼の姿がはっきりしていく。
アッシュブラウンの髪は少し長く、光を受けてやわらかく揺れ、
赤い瞳は底知れない深さを秘めている。
顔立ちは整っていて、年齢はエレノアと同じか、少し上――二十五歳前後に見えた。
しかし、問題はそこではなかった。
視線が、ゆっくりと彼の身体へ落ちていく。
頭から――喉元へ。
胸から――腹部へ。
腰へ。
……腰へ……。
「ひゃあああああああああ!!???」
エレノアの悲鳴が地下まで届きそうだった。
「な、ななななんで!?なんで!?なんで!?
ちょ、ちょっと待って、なんで!?待って!!!」
両手をぶんぶん振り回しながら、赤面どころではない顔色で部屋を走り回る。
頭から湯気が出るという表現は嘘ではない気がした。
脱兎のごとく隅に置いてあった予備のローブへ飛びつき、
勢いのまま彼に向かってバッサァッと被せる。
「これ着てッ!!見てないから!!や、少しは見たけどっ見てないから!!」
ローブをかぶせられた彼は、ぽかんとしながらも素直に袖を通した。
「……ありがとう」
低く落ち着いた声がまた胸に響く。
エレノアは床にしゃがみ込み、両手で顔を覆った。
限界だ。羞恥で死ぬ。
(なんで……なんであんなイケメンが裸で喚ばれてるの!?
いや、禁術だから!?そういう?仕様?え?違う!?どっち!?)
ポソ…
「はじめて…みてしまった……」
震えながら床に崩れ落ちるエレノアを、ローブ姿の彼は静かに眺めていた。
「……君は、誰?」
彼はまた、あの心に刺さる低い声で問いかけてくる。
エレノアは顔を覆ったまま、かろうじて答えた。
「……え、エレノア……です……」
「そうか。エレノア……」
名前を呼ばれただけで、心臓が跳んだ。
彼は自分のこめかみに触れ、困ったように目を伏せる。
その表情は痛々しいほど静かだった。
「何も思い出せない。自分が誰か……どうしてここにいるのかも」
彼は静かに首を振った。
その仕草には演技の影もなく、本当に記憶が存在しないのだと分かる。
ローブの裾が揺れ、赤い瞳だけが月明かりを映していた。
記憶喪失の美形が、目の前で名前だけを頼りに自分を見つめている――




