パンが…焦げる手前
パンを温めるために、
エレノアは魔道具オーブンに軽く魔力を流した。
ほんの少し。
火加減の調整に必要な、ごく弱い魔力。
エレノア自身も気を抜いていた。
(これくらい、普通。
ルベルも反応しないはず……)
だが。
ふわり、と
淡い光が指先にまとわりついた瞬間。
“視線が刺さった。”
エレノアは反射的に振り返った。
案の定。
ルベルが、
静かに息を止めたままこちらを見ていた。
赤い瞳がほんの少し細くなっている。
(え……?
ちょっと魔力使っただけなのに……?)
エレノアが魔力を止める前に、
ルベルが一歩近づいた。
「……いまの……」
声が低い。
抑えている。
本能を必死で押し込めている音。
「エレノアの……魔力の温度……変わった」
「え、ええ!?
そんな変えてませんよ!?
火加減のために少しだけ……」
「少し、じゃない」
「えっ」
「……俺には“刺激”になった」
刺激。
その単語の破壊力が強すぎた。
エレノアの手から魔力がすっと引く。
そして、
心臓が跳ねたのをルベルは逃さない。
一歩。
また一歩。
距離が詰まる。
(ちょ、ちょっと……!
距離ルール!!
これは距離ルールの出番!!!)
エレノアは慌てて手をあげた。
「ルベルっ、ちょ、ちょっと離れ――」
言い切る前に。
ルベルの手がエレノアの手首をそっと掴んだ。
強くない。
やさしくて、熱い指。
「離れる……。
離れるけど……」
彼はエレノアの手首を見つめ、
そこに残った魔力の残滓を指でなぞるように感じ取る。
そして、落ち着かない息で囁いた。
「……エレノアの魔力に触れると……
俺の中の“核”がざわつく」
核。
召喚獣としての本能の中心。
主に特化した感覚。
エレノアは布巾をつかみながら叫んだ。
「だーかーらー!!
だから距離を取りましょうって言ってるんです!!
危ないんですよ、ほんと!!」
ルベルはしばし沈黙し、
ゆっくりと手を離した。
「……ごめん。
離れる」
素直に距離を取る。
ほんの三歩。
それでも十分近い。
だが。
離れ際、ルベルの指先がわずかに震えていたことに
エレノアは気づいてしまった。
(……抑えてる。
私の魔力……まだ刺激強いんだ……)
胸がきゅっとした。
怖いわけじゃない。
危ないのはわかっているけれど――
自分が引き起こしている混乱を、
ルベルが必死に制御しているのを見ると、
どうしようもなく胸に刺さるものがあった。
ルベルは小さく息を吸い、
元の穏やかな声で言う。
「エレノア。
パン……焦げる」
「あっ!?」
慌てて振り向き、
パンを救出する。
その背後で、
ルベルは静かに微笑んでいた。
「……焦げる匂いより……
エレノアの魔力の匂いのほうが、先にわかる」
「~~~~~!!?」
エレノアの心の中で、
叫び声が大爆発した。
(むり!!!
この生活むり!!!
でも……なんか……嬉しくもあるのがもっとむり!!!)
距離ルールが、
まったく意味をなしていないことを
エレノアはこの朝はっきり理解した。




