呼び声の先に応えたもの
夜は深く、家の灯りもほとんど落ちていた。
静寂を破るのは、紙をめくる音と、エレノアの細い息遣いだけ。
机の上には彼女が走り書きした魔術式が散乱している。
禁術を補うための古い構文、魔力の流れを安定させる補助陣、媒介を安全に稼働させるための詠唱補助。
未完成のまま放置されていた師匠の研究に、自分の手で少しずつ手を加えていく。
気づけば、外の闇が窓を黒く塗りつぶしていた。
胸が高鳴る。
怖い。
けれど――それ以上に、試してみたい。
(……師匠の続きを、私が完成させられるなら……)
エレノアは震える指先で魔術書を閉じ、紙束を抱えて大広間へ向かった。
床に魔力粉を撒き、円を描き、十字に補助陣を展開する。
ひとつひとつ確かめながら配置し、最後に中心へ灰色の触媒石を置いた。
魔法灯を消すと、部屋は月明かりだけになった。
静まり返った空間に、彼女の鼓動がやけに大きく響く。
「……始めるよ」
詠唱の言葉が、ゆっくりと空気を震わせた。
古い時代の言語で綴られた言葉は、エレノアが完全に理解したわけではない。
けれど、師匠の筆跡と、自分の補助式が導いてくれると信じた。
魔法陣が淡く光りはじめ、床が低く震える。
影が揺れ、空気が渦を巻く。
「――っ……!」
魔力が一気に引き上げられ、エレノアの髪がふわりと浮いた。
光が陣の縁に沿って走り、中心へ収束する。
次の瞬間。
ぱああっ、と光が弾けた。
まばゆい白と赤が混じり合い、中心点からひとつの輪郭が生まれる。
まるで空気そのものが形を成していくように、影が身を持ち、輪郭が肉となり――
それは、ゆっくりと浮かび上がった。
(…まさか…本当に……?)
恐怖とも興奮とも言えない震えが、エレノアの体を包んだ。
浮かぶ影が徐々に人の形を帯び、光に包まれたその背がゆっくりと回転する。
長い睫毛の影、整った輪郭、肩から胸元のライン――それはどう見ても成人男性の姿だった。
光が弱まり始める。
重力が戻り、彼は静かに降り立った。
素足が床に触れる、かすかな音。
月明かりが彼の輪郭を照らし、ゆっくりと目を開いた。
深紅の瞳だった。
こちらをまっすぐ射抜くような、強い赤。
エレノアは息を呑む。
(……喚んじゃった)
逃げる暇も、後悔する余裕もなかった。
ただそこに立つその存在が、あまりにも綺麗で、あまりにも現実離れしていたから。




