※読む覚悟がある方のみ※
禁術、禁忌による代償。
【 闇に堕ちた守護獣 】
禁術とは、願いを叶える代わりに、必ず“何か”を奪う。
それは命とは限らない。
時間でも、未来でも、ときには
――人としての在り方そのものだ。
港町の古い魔術師邸は、森の小道を抜けた先にひっそりと佇んでいた。海風はここまで届かず、代わりに湿り気を含んだ木々の匂いが、古い石壁の隙間に染みついている。
屋敷の庭は荒れ、蔦が伸び、空を遮るように枝が絡み合っていた。そこだけ季節の進みが遅いように見えた。
春が来ているはずなのに、花の色は控えめで、土の中に残った冬の冷たさが抜けきらない。
ルベルは、その屋敷を“守る”ように整えていた。
外から見れば、ただの廃屋が少しずつ息を吹き返しただけに見える。
だが内側には、彼の手による見えない線が幾重にも重なっている。
結界でも、警報でも、罠でもない。
もっと原初の、
主の匂いを外に漏らさないための“囲い”だった。
誰かに嗅ぎつけられる前に、
誰かが辿り着く前に、
世界そのものからエレノアを隠すための、執着の形。
その中心に――彼女はいた。
薬草を干す窓辺に、
木苺のパイの香りが漂う台所に、
糸車のある部屋に、
そして夜、彼が何度も名を呼んだ寝室に。
彼女は確かにそこにいた。
笑って、手を伸ばして、何気ない日常を“二人の生活”に変えていった。
けれど、禁術の影は、幸せを一撃で壊すような派手さではやって来なかった。
霧のように、霜のように、気づかれぬまま、内側をゆっくりと侵食していく。
最初は、ほんの些細な違和感だった。
疲れやすい。
眠りが浅い。
魔力を練るたび、胸の奥がひどく冷える。
窓辺で薬草を干しながら、エレノアは小さく首を傾げた。
「……歳のせい、かな」
そう言って彼女は笑った。
笑えるうちは大丈夫だと、彼女は信じたかった。
けれどルベルは、その笑顔の端に落ちる影を見逃さなかった。
彼女が唇を結ぶ一瞬、瞳の奥に、
言葉にしない疲労が沈んでいくのを。
魔力が揺れる微細な波形が、
以前よりも“薄い”ことを。
彼は何も言わなかった。
言えば彼女は頑張ってしまうから。
自分が原因だと気づけば、彼女はきっと、無理に笑って無理に詠唱して、無理に日々を積み重ねてしまう。
主が壊れる未来だけは、何があっても許せない。
だが次に失われたのは、
魔力の“回復”という概念そのものだった。
回復薬は効く。
詠唱も正確だ。
調合も衰えていない。
それなのに――魔力は、戻らない。
使えば使うほど確実に減っていく。
エレノアが釜の前で息をつき、肩を落として笑うふりをした日があった。
彼女は「今日は少しだけ」と言い、手元の魔力を絞るように使った。
それは苦しい“やりくり”だった。
ルベルは彼女の背に手を当てたい衝動を噛み殺し、許可を待ち、ただ傍で見守った。
触れれば、彼女の魔力の薄さが指先に残ってしまう。
残れば、彼はもう自分を止められなくなる。
守るために作られた核が、
“守れない現実”に耐えられなくなる。
それは、エレノアの魂が、すでに一度、世界の外側へ触れてしまった証だった。
召喚。再召喚。魂核との完全結合。
人が踏み入ってはならない領域に足を踏み入れ、それでも戻ってきてしまった者の、避けられぬ痕跡。
代償は、さらに静かに、そして残酷な形で現れる。
時間の感覚が曖昧になる。
季節の巡りが、やけに早い。
昨日の出来事が遠い昔のように霞む。
「……あれ? もう、春……?」
エレノアがそんなふうに呟くとき、ルベルは庭の木々を見ていた。
若葉が芽吹く速度が、普通のそれではない。
彼女の目に映る世界の速度が、彼女だけ少し早く進んでいる。
老いではない。病でもない。未来を削られている
――禁術が、彼女から
“生きられたはずの可能性”を燃料として吸い上げている。
子を持つ未来。穏やかな老後。何も考えずただ笑う日々。
それらすべてが、彼をこの世界に繋ぎ止めるために、静かに消費されていった。
ルベルは理解していた。
自分がここにいることそのものが、彼女の未来を削っている。
だから彼は、彼女が疲れれば代わりに動き、彼女が笑えばそれだけで満たされ、彼女が眠れば夜を明かして見守った。
彼女が求めれば抱きしめ、求めないなら息をする距離を守った。
そうすれば、少しでも彼女の負担が減ると信じた。
だが、禁術は優しさの計算に従わない。
そして最後に残された代償は、死後の行き先だった。
エレノアの魂は、人としての輪廻から外れていた。
天にも還れず、地にも溶けず、精霊の循環にも戻れない。
彼女の魂は、ルベルの魂核と深く深く絡み合い、どこにも行けない存在となっていた。
だから彼女は限界まで生き、限界まで愛し、
限界まで世界に留まり
――ある静かな夜、灯火は音もなく消えた。
その夜の空は、ひどく澄んでいた。
森の上に月がかかり、窓辺のカーテンが微かに揺れていた。潮の匂いは届かない。
代わりに、乾いた木と布の匂い、そして彼女の髪に残ったハーブの香りが、部屋の空気をやさしく満たしていた。
エレノアはルベルの腕の中で、指を絡めた。
指先が冷たい。
けれど彼女は笑っていた。
薄い笑顔で、それでも本物の温度で。
「……ルベル」
名前を呼ぶ声は、糸のように細い。
ルベルは呼吸を忘れた。
返事をするだけで彼女が遠ざかる気がして、何も言えなかった。
代わりに彼女の手を包み、掌で熱を伝えようとした。
伝わるはずの熱が、伝わりきらない。
その感覚が怖かった。
エレノアは、まるで眠る前の子供みたいに、目を細めた。
「……ここに、いるね」
彼女がそう言うたび、ルベルの核は痛むほど満たされ、同時に裂けた。
ここにいる。
それが彼女の未来を削る。
けれどいない世界を、彼女は望まない。
彼女が望むなら
――彼はあらゆる理屈を捨ててでも叶えたい。
彼女の指が、もう一度彼の指を探り、絡め、
そして――力が抜けた。
静かに。
音もなく。
世界の中心が、すっと消えるみたいに。
「……エレノア?」
返事はない。
鼓動は止まり、魔力の揺らぎは完全に消えた。
その瞬間、世界が音を失った。
暖炉の残り火のぱちりという音も、風の擦れる音も、遠くの鳥の声も、すべてが一枚の薄布の向こうへ遠ざかった。
残ったのは、掌の中にある冷たさだけだった。
ルベルは、すぐには死ねなかった。
召喚獣として造られた魂核は、主を失ってもなお膨大な魔力を内包していたからだ。
生き続ける。
呼吸する。
思考する。
――独りで。
時間は残酷だった。
日が昇り、沈み、季節が巡り、エレノアのいない世界だけが無意味に更新されていく。
庭の草は伸び、また刈られ、木々は芽吹き、また落ちる。
エレノアが好きだった木苺は実をつけ、誰の手にも摘まれず腐っていく。香りだけが残って、消えていく。
ルベルは何度も同じ場所に座った。
寝台の横、窓辺、台所の椅子。
彼女がよく立った場所で、彼女の影を追い続けた。
耳を澄ませば、もう存在しない足音が聞こえる気がした。
自分の名前を呼ぶ声が、部屋の角に残っている気がした。
「……なんで」
声は掠れ、感情だけが削れずに残った。
「……俺は、まだ生きてる?」
主を失った召喚獣は、本来なら消える。
それなのに、彼は残された。
それが、禁術の最終的な代償だった。
守れなかった。救えなかった。
それでも、終われなかった。
そのとき――
ひとつの記憶が、闇の底から浮かび上がる。
(……魂核)
ノワール邸。
封印されたままの、もうひとつのルベルの魂核。
そして――
エレノアの魔力を吸い、変質した、
“主の残滓を孕む核”。
「……ああ」
低い笑いが、闇に溶けた。
「……そうだ」
あれは、“俺”の一部であり、“エレノア”の痕跡でもある。
――ならば。
主を呼び戻す器として、これ以上に相応しいものはない。
その瞬間、ルベルの中で最後の理性が音を立てて崩れた。
「……待ってて」
かつて彼女にだけ向けていた優しい声。
けれど、その瞳はもう赤ではなかった。
闇を煮詰めたような色。
執着。渇望。後悔。罪悪感。愛。
すべてが溶け合い、ひとつの狂気として結晶する。
「……世界が壊れてもいい」
誰も止められない。
止める理由も、もうない。
「……エレノアが戻るなら」
彼は歩き出した。
人の道でも、魔の道でもない。
主を失った守護獣が、神に背く道を。
夜を選び、影を選び、音を殺した。
森を抜け、街を避け、王都の灯りを遠目に見ながら、
ノワール邸へ辿り着く。
あの場所には、かつて主を奪った術式の匂いが残っていた。ルベルの中の獣が、怒りで牙を鳴らした。
だが怒りだけではない。
そこにあるのは、彼女へ辿り着くための鍵だ。
彼は結界の縁で立ち止まりもしなかった。
禁術で造られた核は、理屈の境界を踏み越える。
守るための存在が、守れなかった現実を破るために牙を向ける。
結界が拒むのは“侵入者”であって、
彼のような“欠落した誓い”ではない。
邸の中は静かだった。
夜更けの廊下に、石の冷たさが薄く漂い、灯りのない空間に微かな魔力の光が漂っている。
彼の鼻腔に、あの男の匂いが刺さった。
冷静さと理性の匂い。
人が人として選ぶ言い訳の匂い。
ルベルは嗤った。
理性で主を奪った者が、理性で主を救ったと信じている。
それが一番、赦せない。
目的の場所は、迷わず辿り着けた。
魂核は、そこにある。封じられ、守られ、整頓された箱の奥で、眠るように息をしている。
金属の冷たい匂い。
封印の術式。鍵。
すべてが“正しさ”で組まれている。
ルベルの指先が触れた瞬間、魂核が震えた。
共鳴ではない。
――呼吸だ。
自分の一部が、戻りたがっている。
「……来い」
彼は囁き、奪った。
箱の封印が悲鳴を上げ、術式が抵抗する。
だが彼の中の核はもう、主を失った痛みで歪んでいる。
抵抗を押し潰すことに躊躇がない。
彼は魂核を抱え、夜へ溶けた。
誰にも見つからないように。
見つかったとしても、止められないように。
彼の中にあるのは、選択ではなく確信だった。
港町の古い魔術師邸に戻る頃、空が白み始めていた。
海の匂いが遠くから微かに届き、森の端が淡い光に染まる。鳥が鳴く。世界が目覚める。
そして彼は、世界を裏切る準備を始めた。
床に魔法陣を描く。
エレノアの手で何度も見た形に、彼は自分の魔力で線を重ねていく。
彼女が生前、丁寧に教えた流れ。
間違えないように。揺らがないように。
けれど同時に、わざと“歪ませる”。
正しい形のままでは届かない場所がある。
彼はそこへ手を伸ばす。
魂核を中央に置いた瞬間、空気が変わった。
室内の温度が落ち、壁の影が濃くなる。
月明かりだけだったはずの部屋に、どこからともなく赤い光が差す。
彼の中の闇が、術式へ滲み出す。
ルベルは立ち尽くし、息を整えた。
胸の奥で、核が暴れている。
“迎えに行け”と、獣が囁く。
「……エレノア」
名前を呼んだだけで、喉の奥が焼けた。
生きていた頃の彼女が、どれほどこの名を呼ばれて甘く微笑んだかを思い出してしまう。
呼んで、呼ばれて、笑って、触れて、眠って、泣いて
――そして消えた。
もう一度呼ぶ。
「……エレノア、愛してる」
それは祈りであり、呪いだった。
詠唱を始める。古い言語。
かつて彼女が再召喚を行ったときに口にした、古い時代の響き。意味を完全に理解する必要はない。
彼に必要なのは、彼女の魂へ繋がる“道”を開くことだけだ。
空気が震える。床が低く唸る。
陣の縁に沿って光が走り、中心へ収束する。
まばゆい白と赤が混じり合い、ひとつの輪郭が生まれる。
空気が形を成すように、
影が身を持ち、輪郭が肉となり――
その瞬間、ルベルは確かに見た。
光の中で、誰かが微笑んだ。
それは、あまりにも小さな微笑みだった。
怖がるでもなく、怯えるでもなく、怒りでもない。
ただ、懐かしい場所に戻ってきた者の顔。
あの、師匠の日記に書かれた
“泣き虫で人見知りの子”が、初めて木苺のパイを食べたときのような、柔らかい表情。
ルベルの視界が滲んだ。
胸の奥が、壊れるほど痛い。
「……エレノア……!」
声を上げた瞬間、魂核が悲鳴を上げた。
耐えきれない。
器が足りない。
戻ってくる魂が、もう“個”としての形を保てない。
輪廻から外れ、どこにも行けない魂は、
いまここで形を得ようとして……
砕ける。
パキン、という音がした。
それは小さな音なのに、世界が裂ける音だった。
魂核が砕け散る。
赤い光の粒が宙に舞い、白い輪郭が崩れ、微笑みの形がほどけていく。
指先が触れられそうだったのに。
呼吸が重なりそうだったのに。
瞳が合いそうだったのに。
「やめろ……!」
ルベルは叫んだ。
止めようと手を伸ばした。
だが掴めたのは光の残骸だけだった。
「エレノア――ッ!!」
絶叫が屋敷を震わせ、古い窓枠がきしみ、灯りが揺れた。
彼の声は喉を裂き、胸を引き裂き、世界の底へ落ちていく。
禁術の重みが、地獄のように降りてきた。
願いを叶える代わりに、必ず何かを奪う。
それは命とは限らない。
時間でも未来でも、人としての在り方そのものでも。
そしていま、奪われたのは
――希望だった。
“もう一度”という可能性そのものだった。
ルベルは膝をついた。
床に散った欠片が冷たい。
彼女へ続くはずだった道の破片。
それを拾い集めても、もう形にはならない。
彼は嗤った。
笑い声なのに、泣き声にしか聞こえなかった。
「……そうか」
息が震える。
「……足りないんだ」
世界に抗うための燃料が。
彼女を“個”として戻すための余白が。
禁術が削り取った未来の分だけ、彼女の魂はもう、帰れる形を失っていた。
「……俺が、遅かった」
その言葉が、胸の奥に刺さった。
遅かった。守れなかった。救えなかった。
だから彼女は削られ、尽きて、輪廻から外れた。
彼の中で、狂気が美しい結晶に変わっていくのを感じた。
怒りでもない。復讐でもない。
ただ、彼女へ辿り着けない世界への拒絶。
――ならば、世界に従わない。
彼は立ち上がった。
散った欠片を掌ですくう。指先に痛みが走る。
欠片は光の残滓で、触れれば指の間を抜けていく。
それでも抱えた。
抱えなければ、彼女の痕跡がどこにも残らない気がした。
そして、選択した。
自らに内包された魂核の魔力を使って、自分自身を封じることにした。
エレノアの元へ“逝ける”ように。
生き続けることは罰だった。
呼吸することは苦痛だった。
思考することは、彼女の不在を繰り返しなぞるだけの地獄だった。
ならば終わりへ行く。
彼女が輪廻から外れ、どこにも行けないのなら
――自分も同じ場所へ落ちる。
世界が用意した道ではなく、禁術が歪めた闇の底へ。
ルベルは、床に新たな線を引いた。
さっきまでの召喚陣とは違う。
これは封印だ。
自分を閉じるための、終わりのための術式。
彼は自分の胸の奥に手を当てた。
そこにある核が、まだ脈打っている。
まだ魔力がある。
まだ生きている。
それが憎いほどに頼もしかった。
「……エレノア」
名前を呼ぶ。
声はかすれているのに、執着だけは鮮明だった。
「……俺は、君がいない世界で生きない」
それは誓いだった。
祈りだった。
そして、誰にも許されない契約だった。
彼は魔力を流し始める。
自分の核を締め上げるように、強く、深く、静かに。
空気が再び震え、灯りが落ち、屋敷の影が濃くなる。
森のざわめきが遠のき、海の匂いが消え、世界が一歩ずつ後退する。
痛みはない。
あるのは、やっと終われるという安堵だけだった。
「……俺が逢いに行く」
呟いた声が、暗い部屋に落ちる。
誰もいないはずなのに、確かに誰かがそこにいる気がした。
彼女の微笑みの残像が、光の粒の間に揺れる。
「……必ず辿り着ける」
彼は目を閉じた。
散った魂核の欠片が、光の粉となって術式の線へ吸い込まれていく。
それは無意味ではない。
戻らない彼女の形ではなくても、
彼の中に刻まれる“彼女の痕跡”として沈んでいく。
召喚獣が捧げた愛は、最も醜く、最も美しい狂気だった。
闇に堕ちたのではない。
彼はただ――愛の底へ沈んでいっただけ…
最後に、彼はもう一度だけ、はっきりと告げる。
「……エレノア、愛してる」
その言葉を合図に、術式が閉じた。
世界から光が削がれ、音が削がれ、
時間が削がれ、彼の存在が静かに折り畳まれていく。
古い魔術師邸は、森の奥で、何もなかったかのように静まる。
ただ、床の線だけが淡く光り、やがてそれも消えた。
残されたのは、ひどく静かな空気と、
二人が確かにここで生きたという、匂いにもならない余韻だけだった。
――
数百年後。
港町の外れ、森の小道を抜けた先にあった古い魔術師邸は、すでに風雨に崩され、原形を留めていなかった。
石は砕け、柱は土に還り、かつて人が暮らしていた痕跡は、ほとんど失われている。
それでも春になると、瓦礫を覆うように赤い花が咲き乱れる。
木苺の甘い香りが風に混じり、木々は穏やかに揺れ、海からの柔らかな風が丘を撫でていく。
人々はそれを、ただの美しい季節の風景として通り過ぎる。
そこに、深すぎる愛と、選ばれなかった再会が眠っていることを知らずに。
崩れ去った邸の地下深く。
時間の流れから切り離された静寂の底で、ルベルは今も封印の中に在る。
ルベルが自らを封じた場所は、
「眠り」でも「死」でもなく、
魂核の奥側、世界と輪廻の狭間だ。
―そこに留まり続けるという選択。
彼は理解していた。
もし、完全に彼女を呼び戻せば…
エレノアの魂は耐えきれない。
一度、禁術に触れ、
二度、世界の外側に引かれ、
すでに輪廻から外れかけていた魂。
そこへ再び、完全な再生を強いれば――
今度こそ、摩耗し、砕け、消えてしまう。
だからルベルは選んだ。
エレノアが消えないように……
抱きしめない。
触れない。
連れ出さない。
ただ、共に在るという形を。
彼は今も、彼女のそばにいる。
彼女を“取り戻す”ためではなく、
彼女が独りにならないように。
声をかけず、
名を呼ばず、
姿を求めることもなく。
ただ、彼女が在る場所に、寄添い在り続ける。
それが、
闇に堕ちた守護獣が、
最後に辿り着いた、
最も残酷で、最も優しい答えだった。
世界は何も知らずに巡り続ける。
春は訪れ、花は咲き、風は歌う。
残されたのは、ひどく静かな空気と、
二人が確かにここで生き、愛し合ったという、
匂いにも、形にもならない 余韻 だけ。
そしてその余韻は今日も、
誰にも気づかれぬまま、
赤い花とともに、世界へ溶けていく。
―fin―




