遅れて届いた、父の愛
港町の午後は、音が少なかった。
潮を含んだ風が家の中を通り抜け、窓辺のカーテンを静かに揺らす。
エレノアは、書庫の奥に積まれた古い箱を整理していた。
魔術書でも、研究資料でもない。
役目を終えた日用品や、使われなくなった布切れが詰め込まれた箱。
その一番底で、
革表紙の薄い冊子が、ひっそりと眠っていた。
「……?」
手に取った瞬間、胸の奥が、かすかに疼いた。
なぜか、心臓に近い場所が、きゅっと縮む。
頁を開くと、古い革が小さく軋んだ。
インクはところどころ滲み、
筆圧の揺れが、書き手の衰えを雄弁に物語っている。
――これは、研究記録ではない。
――魔術書でも、理論書でもない。
一行目を読んだ瞬間、エレノアは理解した。
愛しい妻を失った。
喉が詰まり、息が浅くなる。
師匠が、そんな言葉を胸に抱えて生きていたことを、
エレノアは知らなかった。
世界から色が消えたようだった。
強くて、優しくて、
何でも出来る人だと思っていた。
朝が来ても、夜が来ても、
何ひとつ意味を持たなかった。
頁をめくる指が、自然と慎重になる。
まるで、誰かの心臓に触れているようで。
そんなある日、
泣きながら森を彷徨っていた子供を拾った。
エレノア。
自分の名前が、そこにあった。
胸の奥が、一気に熱くなる。
泣き虫で、人見知りが激しくて、
けれど、こちらが困ると小さく背伸びをする。
覚えている。
師匠の背中に隠れていたこと。
ローブの裾を、離せなかったこと。
木苺のパイが、世界でいちばん好きな子だ。
涙が、ぽとりと頁に落ちた。
インクが滲む。
焼き上がると、
目を輝かせて待つ。
「あ……」
声が、漏れた。
あの笑顔を見るたび、
私は、もう一度生きているのだと感じた。
エレノアは、その場に座り込んだ。
知らなかった。
自分が、誰かにとって「生きる理由」だったなんて。
やがて、文字は震え始める。
私には、もうあまり時間が残されていないようだ。
魔力を練るのが、辛くなってきた。
妻を失った時のように、
エレノアを抜け殻にはしたくない。
「……師匠……」
声が、壊れた。
せめて……
せめて、あの子の人生に
“彩り”だけでも残せたなら。
余白に、何度も書き直された言葉。
――魂核。
忠実で、
命を賭して主を護る守護獣を。
未完成。
魔力が足りない。
時間が足りない。
だから、メモを残す。
あの子が迷わぬように。
一人で抱え込まぬように。
最後の頁は、驚くほど穏やかだった。
人は独りでも生きていける。
だが、共に歩む者に出逢えたなら、
彩りはさらに豊かになるだろう。
私が、エレノアと出逢えたように。
――どうか、
あの子が
独りになりませんように。
そこで、文字は終わっていた。
エレノアの視界が、滲む。
禁術だった。
間違っていた。
多くのものを歪めた。
それでも――
「……私、ずっと……」
声が、震え続ける。
「……師匠に、愛されてたんだ……」
知らなかった。
気づかなかった。
当たり前だと思っていた。
でも、それは――
命を削って注がれた、無償の愛だった。
堪えきれず、
エレノアは日記を胸に抱きしめて、泣いた。
声を上げて。
子供のように。
息が詰まるほど。
「……ありがとう……」
答えは、返らない。
けれど、胸の奥が、あたたかい。
背後で、静かな気配が動く。
「……泣いていい」
ルベルの声だった。
エレノアは、縋るように彼に触れ、
その胸に顔を埋めて、泣き続けた。
師匠が与えてくれていた愛は、
遅れて、確かに届いた。
そしてその愛は――
エレノアが、最後まで生き抜くための
確かな支えになっていた。




