古い魔術師邸で
後日談
港町からさらに離れ、
森の小道を抜けた先に、古い魔術師邸がある。
人の往来は少なく、
潮の香りも、街の喧騒も、ここまでは届かない。
聞こえるのは、風が葉を揺らす音と、
小鳥の声、そして――
薪がはぜる、暖炉の音だけ。
「……今日は、少し冷えますね」
エレノアは窓を閉め、振り返った。
背後では、ルベルがすでに彼女の気配を捉えている。
視線を向けなくても、どこにいるか分かる距離。
近すぎて、
それが“普通”になってしまった距離。
「寒いなら、無理に作業しなくていい」
そう言いながら、
ルベルは自然な仕草で外套を掛ける。
肩に触れる布越しの温度。
それだけで、胸が緩む。
「ありがとう。……本当に、よく気がつきますね」
エレノアが笑うと、
ルベルは少しだけ目を細めた。
「見てるから」
理由は、それだけ。
古い邸は、少しずつ二人の手で整えられていた。
研究室だった部屋は作業場に。
客間だった場所は、薬草棚で埋まっている。
そして、寝室だけは――
最初から、二人のものだった。
誰に見せるでもなく、
誰に説明するでもない。
ただ、二人で生きるための場所。
昼下がり。
エレノアは机で刺繍をし、
ルベルはそのすぐ後ろで書物を読んでいる。
距離は、半歩。
触れないが、離れない。
「……ルベル」
ふと、エレノアが呼ぶ。
「もし、あの時……あなたが封印されたままだったら……」
言いかけた言葉は、
最後まで続かなかった。
背後から、額に触れる温度。
そっと、確かめるような口づけ。
「それでも、来た」
低く、静かな声。
「封印されていようと、世界が違っていようと……
エレノアが生きている限り、辿り着いてた」
それは誓いではない。
宣言でもない。
事実の確認だった。
エレノアは、ゆっくりと息を吐く。
「……怖いですか?」
「いいや」
即答。
「満ちてる」
彼は、エレノアの手を取る。
指と指を絡めるでもなく、
ただ、包むように。
「君がここにいる。
それだけで、他はいらない」
森の向こうで、風が鳴る。
日差しが、床に長い影を落とす。
この時間が、
永遠でないことを、二人ともどこかで知っている。
それでも。
今はまだ、
禁術の代償も、世界の歪みも、
ここには届かない。
あるのはただ――
見つけ合ってしまった二人の、
静かで、甘くて、逃げ場のない幸福だけ。
エレノアは、ルベルの肩にそっと額を預けた。
「……じゃあ、今日も一緒に夕食を作りましょう」
「もちろん。
君が口にするものは、全部俺が把握してる」
「それ、ちょっと怖いですよ?」
「今さら?」
微笑みが重なる。
森の奥、古い魔術師邸で。
禁術で呼ばれた“理想の相手”は、
今日も変わらず、彼女の世界そのものだった。
――この幸せが、
どれほど危ういものであったとしても。
今はまだ、
誰も、それを壊しに来ない。
それで、十分だった。




