夜の底で息づくもの
夕食を終え、片づけを済ませると、
外の空はすっかり群青色に染まっていた。
家の中には、暖炉のぱちぱちという心地よい音と、
木苺パイの残り香がほんのり漂っている。
エレノアはソファに腰を下ろし、
ひとつ大きな息を吐いた。
(……今日だけで、なんか……すごく疲れた)
村へ行き、誤解され、
魔力訓練で心臓が死にかけ、
パイ作りでさらに寿命が縮まり、
最後には……あの危険な問い。
『エレノアは……僕のもの?』
思い出しただけで顔が熱くなる。
(あの言い方ずるいよ……
本能ってああいう……)
胸の奥で心臓が静かに跳ねた。
そんなエレノアの横に――
気配もなく、すっと影が落ちた。
ルベルがいた。
「エレノア」
(ひゃっ……近い……!)
ソファの隣ではなく、
“隣の一歩手前”に立っている距離。
座るでもなく、離れるでもなく、
ただ、そこにいる。
「今日は……疲れた?」
「つ、疲れました……」
正直に言うと、ルベルはふわりと目を細めた。
「……じゃあ、隣。座っていい?」
(な、なんで許可制なの!?
でもダメとも言えない……)
「ど、どうぞ……」
エレノアが少しずつ端に寄ると、
ルベルはゆっくり腰を下ろした。
距離、近い。
肘が触れそうで触れない。
呼吸が重なるくらい近い。
エレノアは思わず膝の上で手をぎゅっと握った。
「エレノア」
ルベルが静かに名前を呼ぶ。
(ドキッ)
ただ名前を呼ばれただけなのに、
胸が跳ねるのを止められない。
「今日……エレノア、よく笑ってた」
「え……」
「パイ作ってる時、楽しそうだった」
エレノアは、胸がじんわり温かくなるのを感じた。
(師匠と……作ってた頃を思い出しただけなんだけど……
それでも……)
「楽しかった……です。
ルベルが……手伝ってくれたから」
そう言った瞬間。
ルベルの瞳が、火の反射を受けてゆるく揺れた。
その揺れは、美しくて――
けれど、少しだけ危うかった。
「……エレノア」
低く落ちる声。
甘くて、静かで、それでいてどこか熱い。
「僕……もっとエレノアの笑うところ、見たい」
「っ……」
心臓が一気に跳ね上がる。
ルベルは、ゆっくりと手を伸ばす。
その手はエレノアの肩に触れる寸前で――止まった。
触れない。
けれど、触れようとしている気配だけが熱い。
「触れても……いい?」
(ひ、ひ、ひいぃぃ……
なんでそんな丁寧に聞くの……
断れない空気……!!)
「……だ……だめです……」
勇気を振り絞って答えると、
ルベルはほんの少しだけ目を伏せ、
「そっか」
と短く呟いた。
――ただ、その瞬間。
ほんの一拍だけ、
彼の瞳の奥に“獣の光”が宿った気がした。
禁術で生まれた本能。
エレノアを護るためだけに組まれた根源。
それが、静かに息をしている。
だが、ルベルはすぐにその気配を消し、
何事もなかったように隣で呼吸を整えた。
エレノアは知らない。
その“触れてもいい?”という問いが、
本能からすれば限界ぎりぎりの
“理性の確認”だったことを。
あたたかい夜の底で、
ひとつの影が静かに伸び続けていた。




