静まり返る距離
朝の光はやわらかく、
昨日までと何も変わらないはずの朝だった。
けれど――
二人の間には、確かに一枚の膜が張られている。
朝食の支度をするエレノアの背中。
湯を沸かす音、器が触れ合う小さな音。
それらすべてが、必要以上に大きく聞こえた。
ルベルは、少し距離を取ったまま、彼女を見ていた。
「……昨夜……」
その一言で、
エレノアの肩が、ぴくりと跳ねる。
「……寝室で……」
(――来た)
心臓が、嫌な跳ね方をする。
「な、なにかな?」
できるだけ、普段通りの声。
振り向いて、笑顔まで添えてみせる。
ルベルは、その様子をじっと見つめてから、
ほんの少しだけ声を落とした。
「……大丈夫だったか?
逆上せたのだろう?」
――責める色は、ない。
心配だけが、そこにある。
それが、逆に苦しい。
「も、もうぐっすり寝て!
回復したよ!」
即答に近い返事。
「ほら、元気だし!」
(嘘……)
胸の奥で、
昨夜の熱が、まだ微かに残っている。
(溢れ出る蜜が止まらなくて……
ルベルを思ってたなんて……言えない……)
ルベルは、わずかに目を細めた。
魔力の揺れを、
完全には信じていない目。
けれど、追及はしない。
「……そうか」
静かに、頷く。
「無理はしないようにして欲しい」
その声音は、優しく、
だからこそ――胸に刺さる。
「うん。ありがとう」
短いやり取り。
それだけで、会話は一度、途切れた。
沈黙。
その中で、
ルベルがぽつりと続ける。
「……そうだ。
エレノアに教えてもらった、
血の巡りが良くなる薬液を……
作ってもいいかな?」
一瞬、空気が止まる。
「……私の為に?」
問い返すと、
ルベルは迷いなく答えた。
「エレノアの為に」
視線は、真っ直ぐだった。
(……それだけ、なのに……)
胸が、妙にざわつく。
「一緒に作ろうか?」
自然な提案のつもりだった。
けれど――
「いや」
ルベルは、静かに首を振った。
「……ひとりで作ってみたい」
その言葉に、
エレノアは一瞬だけ、違和感を覚える。
(……あれ?)
けれど、深く考える前に、
彼は視線を逸らしてしまった。
「……失敗したら、相談する」
(……失敗、ね……)
「じゃあ……」
エレノアは、気持ちを切り替えるように微笑む。
「私は、ルベルの新しいローブに
刺繍を入れようかな」
針と糸。
いつもの作業。
それぞれが、
それぞれの“準備”を始める朝。
エレノアは、
ローブに花模様を縫いながら、
ルベルは、
調合室で、ひとり静かに。
互いに同じ家にいながら、
違う場所を見つめていることに――
まだ、二人とも気づいていなかった。




