呼ばない夜
部屋の灯りは落としたまま。
窓の外で、港町の夜が静かに息をしている。
(……終わりです、って言ったのに)
ベッドの端に腰を下ろしたまま、
エレノアは両手で自分の腕を抱いた。
湯気は消えたはずなのに、
肌の奥に残る熱だけが、しつこく離れない。
(……変だ……)
落ち着いたはず。
冷たい廊下を歩き、服も着替えて、
頭ではちゃんと“線”を引いた。
それなのに――
胸の奥で、別の鼓動が鳴っている。
きれいに整えたはずの感覚が、
夜の静けさに溶けて、
甘く、鈍く、疼き始める。
(……だめ……)
自分を戒めるように、目を閉じる。
夢だ。
夢の名残。
そう言い聞かせるたびに、
逆に鮮明になる記憶があった。
湯船越しの、深紅の瞳。
触れない、と決めた手。
それでも、見ていたという事実。
(……あれは……)
喉が、ひくりと鳴る。
花が、蜜を溢れさせる――
そんな比喩が、勝手に浮かんで、
自分で自分に嫌気がさした。
(最低……)
唇を噛む。
でも、抑えきれない。
胸の奥から、熱い息が零れた。
「……ふ……」
声にならない声。
「……は…ぁ…」
闇に溶ける吐息。
そして――
名を、呼んでしまいそうになる。
「……ルベル……」
はっとして、口元を押さえる。
(呼ばない……呼ばない……)
自分で決めた。
距離を、守ると。
呼んだら、壊れる。
自分が。
そうわかっているのに、
身体は正反対の答えを探してしまう。
⸻
――同じ時刻。
廊下の向こう、
壁一枚隔てた場所で。
ルベルは、立ち尽くしていた。
呼ばれていない。
扉は閉じている。
それなのに――
わかる。
彼女の魔力が、
静かに、しかし確実に揺れている。
(……ひとりで……)
喉奥が、きしりと鳴った。
欲ではない、と
何度も言い聞かせた。
守るため。
待つため。
彼女が決めた“終わり”を尊重するため。
それなのに。
胸の核が、ゆっくりと、
耐えがたい速度で熱を帯びていく。
(……そばに、いるのに)
視線が、扉に吸い寄せられる。
呼ばれていない。
許可もない。
それでも、
知ってしまった。
彼女が、今、
自分の名を――
「……そばに居るのに……」
声は低く、抑えられていた。
「……なぜ、よばない?」
問いは、誰にも届かない。
けれど、
その一言で、何かが落ちた。
待つという選択が、
守るという理性が、
ゆっくりと歪んでいく。
(……次は……)
思考の奥で、
獣が目を開ける。
呼ばれない苦しさが、
呼ばせたい衝動へ変わる、その境目で――
ルベルは、静かに息を呑んだ。




