脱衣所の動悸
(……だめ、だめだめだめ……)
脱衣所の冷たい床に足をついた瞬間、
胸の奥で、心臓が暴れ出した。
どくん、どくん、と
耳の裏まで響くほど大きな音。
(落ち着いて……ただの……のぼせ……)
そう言い聞かせても、
熱は引かない。
夢で、何度も抱かれた。
触れられて、呼ばれて、
名前を囁かれて――
あれは夢だと、何度も区切りをつけてきた。
でも。
(……今のは……)
湯船の向こうにいたのは、
夢の中のルベルじゃない。
現実の、呼吸をする彼。
湯気に包まれた、静かな身体。
そして――
深紅の瞳。
(~~~~~っ!!)
思い出した瞬間、
思わず声にならない悲鳴が喉に詰まる。
あれは……だめでしょう?!
濡れた髪から、ぽたり、と雫が落ちて。
湯気の向こうで、
その瞳だけが、はっきりとこちらを見ていて。
触れていないのに、
触れられているみたいな視線。
(……見られてた……)
身体が、じん、と疼く。
(……やめて……)
夢の名残だと思いたかった。
でも、湯船で見た彼は――
現実だった。
(……欲しくなる……)
その言葉が浮かんだ瞬間、
エレノアは自分に腹が立った。
(だめ……そんなこと……!)
頭をぶんぶんと振る。
濡れた髪が頬に当たり、
余計に意識が散る。
「……っ」
両手で、ぱちん、と頬を叩いた。
少し痛い。
でも、それでいい。
(私は……冷静でいなきゃ)
心臓はまだ早い。
でも、考える。
(……ルベルが出てくる前に……)
今、顔を合わせたら――
また、見てしまう。
見て、思い出して、
きっと……逃げられなくなる。
(……服……早く……)
急いで袖を通し、
指先が震えてボタンをかけ損ねる。
(落ち着いて……)
深呼吸。
一度。
もう一度。
(……部屋に戻ろう)
扉の向こうから、
まだ湯の音は聞こえない。
(……今のうち……)
エレノアはそっと、
音を立てないように脱衣所を抜けた。
廊下の冷たい空気に触れた瞬間、
胸の奥が、少しだけ落ち着く。
(……危なかった……)
それでも――
背中に残る熱と、
視線の感触だけは、
どうしても消えなかった。
(……夢じゃ……なかった……)
そう気づいてしまったことが、
何よりも、怖かった。




