湯船の熱
「……熱くて。逆上せたので、先に出ます」
声は平静を装っていたけれど、
湯気の向こうで、エレノアの息は浅かった。
「支える」
即座に落ちる、低い声。
「いいえ!」
振り向かないまま、少しだけ強く言う。
「……ルベルのせいです」
それだけ告げて、
水面が揺れ、足音が遠ざかる。
扉が閉まる音。
静寂。
湯船に残されたのは、
白い湯気と、まだ熱を帯びた水音だけだった。
⸻
(……ああ)
ルベルは、動けなかった。
視線の置き場を失ったまま、
湯の表面に映る揺らぎを見つめる。
(初めてだ)
胸の奥で、言葉にならない思いが脈打つ。
初めて、同じ湯に浸かり。
初めて、同じ時間を分け合い。
初めて、“現実の世界”で、彼女の身体を見た。
触れていない。
触れてはいけないと、わかっていた。
それでも――
(……目が、触れてしまった)
輪郭。
光の反射。
水面に浮かぶ線。
どれもが、記憶に焼き付いて離れない。
欲が、喉奥で鳴った。
(……抑えろ)
湯の中で拳を握る。
熱が逃げない。
むしろ、内側に溜まっていく。
(……逃げられた)
その事実が、胸を締めつける。
拒絶ではない。
“終わりです”という、正しい合図。
なのに――
(……俺のせいだ)
彼女が逆上せたのも、
逃げるように出ていったのも。
全部、俺の視線のせい。
(……それでも)
心の奥で、獣が静かに首をもたげる。
(……見た)
一度、見てしまった。
想像ではなく、夢でもなく、
幻でもない。
現実の彼女。
(……もう、戻れない)
湯気の中で、
ルベルはゆっくりと目を閉じた。
(……次は)
その言葉を、
胸の内でだけ、噛み殺す。
湯の音が、静かに鳴る。
扉の向こうにいる彼女の気配を感じながら、
ルベルは、ただ――
欲を、深く沈めた。




