湯気の向こうの願い
邸へ戻ると、窓の外はもう夜の帳が降りていた。
港の匂いが残る上着を脱ぎ、二人で並んで台所に立つ。
野菜を刻む音、鍋の中で揺れる湯気。
ルベルは火加減を見て、エレノアは香草をひとつまみ落とす。
「……いい匂い」
「でしょう? 今日は少し軽めに」
「エレノアの手料理は……落ち着く」
食卓は静かで、あたたかい。
言葉が少なくても、間に沈む沈黙が心地いい。
食後、二人分のハーブティー。
淡い蒸気が立ち上り、カップの縁に灯りが揺れる。
リビングで肩を寄せ、同じ頁を追う。
時々、ルベルの指が行をなぞるたび、エレノアの心拍が少し速くなる。
しばらくして、ルベルがぽつりと言った。
「……エレノアと、したかったことが沢山あった」
ページを閉じる音が、小さく響く。
「なんですか?」
「……お風呂」
「……へ?」
エレノアの声がひっくり返る。
ルベルは目を伏せ、言葉を選ぶように続けた。
「いつも……エレノアが入った後、俺が入るだろう。
その時、浴室に残る魔力が……熱くて、落ち着かなかった」
「……っ」
頬が一気に熱くなる。
思い出すのは、湯気の中に残る気配。柔らかく、甘い余韻。
「今日は……一緒に入りたい」
低く、穏やかな声。
命令でも、衝動でもない。願いだった。
エレノアは一拍置いて、息を整える。
「……約束は守れますか?」
「守る」
即答だった。
「許可があるまで、触れない」
「……うん」
ルベルは小さく頷き、距離を保ったまま立ち上がる。
「一緒に、湯に浸かるだけでいい。
エレノアの呼吸が、落ち着くまで」
その言い方が、逆に胸に響く。
「……じゃあ」
エレノアはカップを置き、視線を合わせた。
「私が“いい”って言ったら、ね」
ルベルの赤い瞳が、静かに深くなる。
「……待てる」
廊下を進む足音は、ゆっくり。
扉の向こうで、湯を張る音が始まる。
湯気が立ちのぼる前の、
いちばん危うくて、いちばん静かな時間が流れていた。




