貴方の名前は…
月明かりの中、
魔法陣はまだ淡く脈打っていた。
完全に安定していない光が、
まるで二人の間の距離そのもののように揺れている。
ルベルは、動かなかった。
触れられる距離にいながら、
一歩も踏み出さず、ただ静かにエレノアを見つめている。
深紅の瞳が、ゆっくりと瞬いた。
「……前と、同じことを聞いてもいい?」
その声音は穏やかで、
けれど逃がさない強さを孕んでいた。
エレノアは、黙って頷く。
ルベルは、ほんの少しだけ視線を伏せ、
それから、確かめるように言った。
「僕は……名前がないんだよね?」
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
前にも聞いた言葉。
けれど、今はまるで意味が違う。
封印され、失われ、
それでもなお呼ばれた存在が問う言葉。
「だから……」
ルベルは顔を上げる。
深紅の瞳が、
今度はまっすぐに、深く、エレノアを射抜いた。
底に熱が宿っている。
静かなのに、抗えないほど濃い熱。
「君が……与えてくれない?」
その瞬間、
魔法陣の光が、わずかに強まった。
エレノアは息を吸い、
胸に手を当てる。
——逃げ場はない。
でも、逃げたいとも思わなかった。
「え……?」
小さく漏れた声に、
ルベルは何も言わない。
ただ、待っている。
許可を。
名前を。
帰る場所を。
エレノアは、はっきりと告げた。
「私の名は……エレノア」
一拍、置いて。
「貴方の名前は……ルベル」
その名が紡がれた瞬間。
魔法陣が、確かに“応えた”。
赤と白の光が静かに溶け合い、
揺れていた空気が、ぴたりと定まる。
ルベルの瞳が、わずかに見開かれ、
そして——柔らかく細まった。
微笑みだった。
あまりにも静かで、
けれど、すべてを掴んで離さない笑み。
エレノアの喉が、わずかに震える。
「……おかえりなさい」
その言葉は、
契約であり、許しであり、祈りだった。
ルベルは、ゆっくりと息を吐く。
長い間、溜め込んでいた何かを、
ようやく解放するように。
「ただいま……エレノア」
その一言で、
魔法陣の光が静かに消えた。
残ったのは、
月明かりと、二人分の呼吸と、
名前で結ばれた“確かな現実”。
ルベルは、まだ触れない。
けれど、その視線は言っていた。
——もう、離れない。
——君が俺を呼んだ。
——次は、どこへも行かない。
エレノアの胸の奥で、
赤い花が確かに刻まれた。




