月下再臨
魔法灯を消すと、
部屋は一瞬で闇に沈み、次いで月明かりだけが残った。
窓から差し込む淡い銀色が床をなぞり、
描かれた魔法陣の線だけを浮かび上がらせる。
静寂。
耳鳴りがするほどの静けさの中で、
エレノアは自分の鼓動だけをはっきりと感じていた。
——こんなにも、音が大きかっただろうか。
「……始めるよ」
呟きは、誓いに近かった。
詠唱を始める。
古い時代の言語。
発音も意味も、完全には理解できていない。
それでも言葉は、
師匠の走り書きと、エレノア自身の魔力に導かれるように
正しい順で、正しい響きを持って空間へ落ちていく。
魔法陣が、淡く光り始めた。
床が低く震え、
空気が“反転する”ような感覚が走る。
影が揺れ、
月光が歪み、
見えない渦が陣の中心へと吸い寄せられていく。
「――っ……!」
一気に魔力が引き上げられ、
エレノアの髪がふわりと宙へ舞った。
息が詰まる。
陣の縁に沿って光が走り、
赤と白が交互に脈打つ。
——次の瞬間。
ぱああっと、
光が弾けた。
初めて見たあの光と、同じ。
けれど、どこか違う。
今度の光は、
“失われたものが戻る”重さを帯びていた。
白と赤が混じり合い、
中心点から、ゆっくりと輪郭が生まれる。
それは、空気が形を得ていくような現象だった。
影が濃くなり、
線が面になり、
やがて——人の姿を成す。
浮かぶ影が徐々に人の形を帯び、
月光の中で、その背が静かに回転する。
長い睫毛の影。
整った輪郭。
肩から胸元へ続く、はっきりとしたライン。
成人した男性の姿。
光が弱まり、
重力が戻る。
——とん。
素足が床に触れる、かすかな音。
その瞬間、
エレノアの胸の奥で、赤い花が強く脈打った。
彼は、ゆっくりと顔を上げる。
月明かりを映して、
深紅の瞳が開いた。
まっすぐに、
迷いなく、
エレノアを捉える赤。
「……エレノア」
声は低く、確かで、
夢の中よりも、ずっと現実だった。
名を呼ばれた瞬間、
エレノアは息を呑む。
——そこにいる。
確かに、
彼は“戻ってきて”いた。
裸のまま佇むその姿は、
無防備でありながら、異様な存在感を放っている。
人ではない。
けれど、もう“失われた存在”でもない。
ルベルは、一歩、前に出ようとして——
そこで、ぴたりと止まった。
まるで、見えない線を意識するように。
深紅の瞳が、わずかに細まる。
「……許可は?」
その一言に、
召喚が“完成していない”ことを、エレノアは悟った。
それでも。
月下で再び向き合った二人の間に、
確かな“繋がり”が脈打っている。
封印は解けていない。
代償も、まだ始まったばかり。
——けれど。
彼は、応えた。
エレノアの呼びかけに。




