甘いパイと近すぎる距離
魔力訓練から逃げるようにキッチンへ避難したエレノアは、
胸を押さえたまま深呼吸を繰り返していた。
(お、落ち着け私……!
変なこと言われたけど……たぶん悪気はない……
本能がちょっと出ただけ……だよね? ね??)
自分にツッコミを入れながら視線を上げると、
籠に入れた木苺が目に入った。
(あ……パイ作ろうって思ってたんだ)
気持ちを落ち着けるにはちょうどいい。
甘いものを作る時間は、心がすっと軽くなる。
「よし……パイ、生地から作ろう」
粉を量り、バターを切り、小さく息をつく。
師匠と一緒に作った日のことがふわっと蘇って、
少しだけ胸が温かくなった。
そのとき。
トン……と背後で足音がした。
「エレノア」
「ひゃっ!? ル、ルベル……!」
振り返ると、ルベルがまた半歩の距離に立っていた。
フードは外していて、赤い瞳がこちらをまっすぐ見ている。
(近い近い近い……!)
エレノアは慌ててボウルを抱えた。
「え、えっと……今はお菓子作りなので……危なくないですよ……?」
ルベルは首を傾げて、キッチン台をゆっくり覗き込む。
「……それ、今日はじめて見る」
「ええと、これがパイの生地で、
ここに木苺を乗せて焼くと……美味しいお菓子になります」
ルベルの顔が、ほんの少し明るくなる。
「……食べたい」
その口調が、妙にずるい。
エレノアは一瞬で負けた。
「つ、作りますっ!」
「手伝う」
即答。
(即答うぅ!! なんでそんな素直なの!!)
ルベルは迷いなくエプロンを取ろうとした。
エレノアが急いで止める。
「ちょっ……それ私のエプロン!!」
「……じゃあ、これ使っていい?」
棚の奥にあった布を取り出す。
不思議なくらい自然な動作で腰に巻こうとする。
(うう……似合う……似合うのが悔しい……)
エレノアは気を取り直して、生地伸ばしを始めた。
「ルベル、木苺を選んで洗って……このざるに入れてください」
「選ぶ?」
ルベルは木苺を一つつまみ、指で優しく転がす。
その仕草が妙に丁寧だ。
「こういうのは……どう?」
「……形がきれいで傷んでないから、いいと思います」
「じゃあ……これは?」
「それもいいです」
「これは?」
「いいです」
「これは?」
「ルベル……それ全部いいやつです……」
選別はしていなかった。
ただ全部を丁寧に扱っていただけだった。
(そ、そうか……丁寧すぎる……!
適当に放らないんだ……えらい……)
エレノアが微笑むと、
ルベルは一瞬だけ目を見開き――
そのあと、すごく嬉しそうに目を細めた。
(あ……笑った……
木苺より甘い笑顔だ……)
ドキンッ。
胸が跳ねて、生地を伸ばす手が止まってしまう。
するとルベルがすっと背後に回った。
エレノアの手が止まったのを自然と“助ける”動作として解釈したらしい。
彼の手が、エレノアの手元へ伸び――
「こうするの?」
手を重ねてくる。
「ひゃあぁぁぁ!?!?」
「……熱い?」
「ち、違っ……だ、だめです近すぎますぅ!!」
「エレノアの手、冷えてた」
(そういう問題じゃないぃぃ!!)
慌てふためくエレノアの横で、
ルベルはなぜ怒られているのかわからない顔をしている。
「エレノア、顔が赤い」
「赤くなります!!誰でもなります!!」
「……そう?」
首を傾げる仕草がまた心臓に悪い。
その後も、
木苺をまぶしたり、パイ皿に敷き詰めたり、
ルベルの天然すぎる距離感が何度もエレノアを追い込むのだった。
そしてようやく出来上がった木苺パイは――
幸せな香りが部屋にふわっと広がり、
エレノアの心を丸ごと包んでしまうほど素朴で甘いものになった。
ルベルは焼き上がったパイをじっと見つめながら呟いた。
「エレノアと作るの……好き」
心臓が跳ねる音が、今日はもう何度目かわからない。




