第一話
人気のない校舎裏で、伊川優子は煮え滾るような憎悪の目を向けられていた。
「あんた、あたしの事馬鹿にしてんの?」
優子の前に仁王立ちする女子生徒が冷たい口調で問う。
可憐な顔立ち。華奢な体躯。普段は虫も殺せないようなか弱い雰囲気なのに、今彼女が優子に向ける目は随分と険しい。
壁際に追い詰められながらも、優子は淡々と言葉を返した。
「別にそんな事はないんですが」
思い上がりも甚だしい。いくらヒロインだからって、世界中の誰もが“柏木姫希”を気にかける訳ではない。
動揺を微塵も感じられない声色に、姫希の目が吊り上がった。
「それが馬鹿にしてるって事なのよ!」
心底どうでもいい。何故、こんな事に時間をとられなければならないのか。
姫希が優子に顔を近付け、その瞳に優子の顔が映り込む。きつい印象を与える吊り目気味の目に、目立つ泣きぼくろと、いかにも悪役令嬢らしい顔立ちだ。
そんな悪役女が、両手を壁につけた姫希に囲われている。……完全に立場が逆転している。追い詰めるヒロイン。されるがままの悪役令嬢。見る者が見れば、違和感甚だしい光景だろう。
「ちょっと、聞いてんの?」
苛立った声に、優子は姫希に焦点を合わせる。可愛らしい顔を般若のように歪め、姫希は憎々しげに言った。
「ほんと、どうにかしなさいよ。悪役あってこそのヒロインなんだから」
◇
もっと勉強しておけば良かったと、何度後悔しただろう。
高校三年、夏の進路相談で、このままだと厳しいと渋い顔の担任に言われた。退出する間際に励まされ、それが上辺のものだと知りつつも笑顔で「ありがとうございます」と「頑張ります」を吐き捨てた。
第一志望が無茶であると、最初から知っていた。全国的に有名な難関国立大で、しかし、彼女がやりたいと思った事は、そこでしかやれそうにない。
だから志望し、現実に打ちのめされた。
もっと早く志望を決めていたら。
もっと真面目に勉強に取り組んでいたら。
深い悔恨、嫉妬、絶望。泣くのは早いと分かっていてもどうしてだか涙が出た。進路相談の帰り道、どこに人の目があるとも知れない道路だったが、そんな事を気にする余裕はなかった。自分が惨めで、憎くて、消えてしまいたくて。自分を嫌って、嫌い尽くして、ふと、彼女は俯けていた顔を上げた。
目に入ったトラックが、こちらに向かっている気がする。
最初は気のせいだと思った。気分が沈んでいるから、悪い方向に考えてしまうのだと。
しかし、距離が縮まる度に妄想は現実味を帯びていく。ちらりと運転席を見て、頭部が項垂れているのが分かった。確実に前を見ていない。
直ぐに、居眠り運転だと悟った。
とはいえ、分かっていても動ける訳ではない。避ける間もなく、彼女はトラックと激突した。
――そうして死んだ彼女は、前世の記憶が残ったまま、いずこかの世界に転生した。
これが乙女ゲー転生だと気付くのに、そう時間はかからなかった。
どこか見覚えのある自分の顔。聞いたことのある名前。婚約者の存在。時を経て、自分を取り巻く世界が広がる度に、違和感は強く形を成していく。前世でやった乙女ゲームの世界に酷似する状況に、嫌でも現実を認めるしかなかった。
乙女ゲーを無作為かつ節操なくプレイしていた彼女の脳に、残念ながらそのゲームのタイトルは刻まれていない。……詰まり、タイトルを覚えられない位には、ハズレの作品だったという事だ。
舞台は確か、名門と言われる私立の小中高一貫校だったか。
内部生が多くを占めるその学園で繰り広げられる、高二から編入してきたヒロイン柏木姫希の恋物語である。多様なエンディングが売りで、細かいところまで気を使ったシステムは多くのユーザーに好評だった。
そんなゲームで、伊川優子は所謂悪役であった。“秋峰怜”という攻略対象者の許婚で、注目を拐ったヒロインを良く思わない連中の筆頭である。
高飛車で、傲慢。悪役令嬢と名高い彼女だが、嫌がらせと言っても事あるごとに嫌味を言ってくる程度の可愛らしいものだ。彼女が本領を発揮するのは、当の攻略対象者のルートである。
伊川優子は怜に一目惚れし、誰よりも婚約者を慕っていた。そんな許嫁に近寄るヒロインに我慢出来ず、伊川優子は人を使ってヒロインを追い詰める。悪口や窃盗は言わずもがな、時には男を雇い暴行を加えようとしたりと、女なら顔を顰めるだろう卑劣な方法も使って。目的の為なら手段も厭わない彼女は、当然ユーザーにもモブにも嫌われていた。
悪役令嬢が暴走する怜ルートのエンドの一つに、“ヤンデレエンド”なるものがある。
粗筋は簡単で、ヒロインに嵌まった怜がうっかり病み、ヒロインに仇なす者を全て排除しようとするのだ。その過程で、愛する者に危害を加える者筆頭な伊川優子は、通り魔に殺される。……無論、かの攻略対象者がきっちり詰めた計画殺人である。
トゥルーエンドにおいては、ヒロインを苛め抜き、最終的にはそれを怜に暴かれ、断罪され、学園から去る。更には父の脱税が露呈し、社交界からも消えるという精神的にも社会的にも無惨な末路を辿る。
有り体に言ってしまえば、伊川優子には碌な終わり方がない。他にも、夜の仕事に売り飛ばされ、凌辱される姿を怜に見られながら画面が暗転したり、親の会社を買収され、柏木姫希とのイチャイチャを見せ付けられて精神的苦痛を食らったりする。
それでも、ヒロインの目線で見れば、痛快な終わり方なのだ。伊川優子の行動が不愉快で秋峰怜のスチルフルコンプが出来なかったというユーザーも多く、エンディングに辿り着いたユーザーはゲーム機を叩き折りたいのを我慢してプレイし続けたのだから。前世の優子も例に漏れず、トゥルーエンドの時には「ざまぁみろ! あっはははっ!」などと深夜特有の狂ったテンションで拳を天に突き上げた。何を隠そう、高三のゴールデンウィークの事である。……前世ながら、少し虚しくなってきた。
さて、その悪役令嬢に転生して、一体何をしようと言うのか。
いくらゲームの世界であろうと、今の“伊川優子”にその役目を果たす気はない。義務でもないのに、わざわざ死にに行くなんて全く馬鹿げている。
没落も、死も、全て関わらなければ簡単に回避出来ると、優子は踏んだ。流石に冤罪で後ろから刺されるなんて事にはならないだろう。
ただ、諦めきれない事はある。転生の理由がそれなのではと思ってしまう程の未練が。
高校三年生だった頃、彼女は定理や年号、英単語を必死で詰め込んでいた。必死でやり過ぎて、自分に降りかかる訳もないチートを夢見ていた。学年首位を独走している奴は前世の記憶でもあるに違いないと、本気で信じていた程だ。
そして、彼女は目標としていた大学を受験する前に、事故で死んでしまった。
挑戦すらも許されなかったと、彼女は再び涙した。
どうしても、入学したい。やらずして諦めるなど、到底認められない。
だから、彼女はその大学があるかを調べてみた。
結果、その大学は存在していた。前世の記憶そのまま、全国的に有名な難関国立大として。
そこで、彼女は初めて希望を持った。
行けるかもしれない。
無論、今のままでは不可能だ。ただ、自分には生まれながらにして記憶がある。この世界でも十分通用する知識がある。そして、十年以上の猶予がある。
ならば、決して不可能ではない。手の届く範囲に、憧れの大学がある。
前世で無理でも、伊川優子としてなら。そう考えると、力が漲ってくるのが分かった。えもいわれぬ高揚感。この世界に来てから塞いでいた胸が、久々に軽くなった。
早く大きくなりたい。少なくとも、鉛筆を握れるくらいまでは。
かく言うわけで、優子は悪役令嬢の名を捨てて、前世から持ち越した夢を叶える為に行動したのだ。




