愚者
「くそっ……何なんだ、あいつは……!」
俺はボロボロになった体を引きずるように、人通のない裏道を歩いていた。
「この俺様が、手も足も出ないだと? そんなことが……」
ギリッ……と歯を食いしばり、壁をぶん殴る。
「そんなことがあってはならない!」
「うんうん。わかるよその気持ち」
「──っ、誰だ!」
背後から掛けられた幼い男の声に、振り返る。
そこには、帽子を目元深くまで被った子供の姿があった。
さっきまで人の気配は感じられなかった。
この俺様が、気付けなかった……?
「いやぁ、あの試合を見せてもらったよ。まるで大人と赤子の戦いのようだったね」
「…………生憎、ガキの挑発に乗ってやるほど暇ではない。では」
子供に背中を向け、歩き出す。
さっきの戦いは何かの間違いだ。
この俺が負けるのは、間違っている。
アカネの夫に相応しいのは、この俺、バリツなのだ。
──不正だ。
あいつは神聖な決闘で不正をした。
そうでなければ、あの実力差はおかしい。
だから、次だ。
まずは体を休め、次こそは勝つ。
次こそアカネの隣に座るのは、この俺様──
「あいつに勝たせてあげる」
再び背後に投げかけられた言葉に、俺は足を止めた。
「…………なんだと?」
「あいつの力は異常だ。何か裏があるに違いないと思うのは、仕方ないことだ。……でもね? 残念ながらあれは不正でも何でもなくて、あの女自身の力なんだ」
「女、だと? お前は何を、」
「だから、勝たせてあげるよ。そうすれば君は晴れてあの鬼の婚約者になり、夫になれる」
手を差し伸べられた手は、とても小さい。
俺が本気で握れば、簡単に潰れてしまいそうだ。
だが、本能が『それをしてはいけない』と警告を発している。
「…………何が、目的だ」
「目的? そうだなぁ。ボクはあの女が嫌いなんだ。大嫌い。最初は傍観に徹する予定だったんだけど、あの女のせいで予定が狂っちゃって……気が変わった。徹底的に潰して、ぐしゃぐしゃにして、二度とこの世界に立てないようにしてやろうって、そう決めたんだ。──ボクの計画に邪魔なんだよ、あの女は」
嫌いだから、潰す。
さも当然のように言い放つ子供に、背筋が冷えた。
「だから君には協力してほしいんだ。どうだい? 悪くない提案だと思うけれど」
「本当に、俺様は勝てるのか?」
心臓を押し潰すかのような迫力と、圧倒的な力の差。
現実から目を背けていたことを、今更思い出す。
あれには勝てないと、あの時、俺は理解してしまった。
冷静になれば、本当に異常だった。
あれが不正ではなく、単純な強さだと……?
そんな相手に、俺が勝てるのか?
「大丈夫。ボクが力を分けてあげる」
──さぁ、この手を握ってごらん?
子供は笑う。
ニチャァと顔を歪め、薄気味悪く笑った。
「俺、は……」
勝ちたい。
あいつに勝って、今度こそアカネを──。
「アカネは俺のものだ」
気が付けば俺は、その手を取っていた。
「そう。それでいいんだよ」
「──っ!」
ドクンッと、心臓が大きく鼓動した。
「何だ、これ──ァ、アア、アアアアアアアア!!!」
ドクンドクンと、心臓は強く脈動する。
奥から湧き上がるのは激しい痛みと、溶けるような熱。
立っていられなくなり、俺は膝をついた。
意識が朦朧としてきた。
気を抜けば、自分を忘れてしまいそうになる。
まるで自分の中に、別の何かが作られているかのような、これは────
「ふふっ、ようこそこちら側へ」
カラカラと、笑う声が聞こえた。
「君はそのままボクの実験体になってくれれば、それでいい。……ああ、やっぱりいつの時代も馬鹿は扱いやすいよ」
「ぐ、ぅ……き、さま……!」
「君は新しい自分に生まれ変わるんだ。君が望んだことだよ」
──大丈夫。きっと気に入ってくれるさ。
男は笑う。
楽しそうに。
愉快そうに。
「さようなら、バリツくん。君は本物の愚者だったよ」
あかね、オレは────
何もない虚空に手を伸ばす。
オレの意識は、そこで途切れた。




