黎明の誓い
闘技場は月の下で眠っていた。
凍てつく空気が、痛みすら伴う沈黙を運んでいた。
城壁の外では、焚き火が両陣営の野営地を照らしていた。
〈血の契約〉はすでに結ばれ、最初の戦いは夜明けと共に始まる。
ハルトは近くの丘からその光景を見下ろしていた。
松明の明かりが彼の瞳にちらついて映る。
彼は口を開かず、ただ風の音と仲間たちの吐息に耳を傾けていた。
沈黙を破ったのはアウレリアだった。
「ご主人様……明日、私が戦います。お願いがあります」
ハルトは彼女を見た。
彼女は跪き、頭を垂れた。
「この戦いを命令としてではなく、私の選択として見ていただきたいのです」
「なぜだ?」彼は静かに尋ねた。
アウレリアは懐かしそうに微笑んだ。
「私は“仕えるため”に作られました。でも、あなたに出会ってから、“選ぶ”ことを知りました。
だから、もし死ぬことがあれば、それは義務ではなく、私の意志であってほしいのです」
ハルトは一瞬、視線を落とした。
「お前は死なない。まだ世界に教えることが、たくさんある」
その一言でアウレリアは悟った。
彼にとって忠誠とは、鎖ではなく、絆なのだと。
一方、キャンプの別の場所では、マグノリアが鞭と銃を研ぎながら、古い旋律を口ずさんでいた。
カオリが近づき、興味深そうに尋ねる。
「緊張してないの?」
マグノリアは軽く笑った。
「緊張なんて、人間だった頃だけね。今はただ、アドレナリンと記憶だけ」
カオリは彼女の隣に座った。
「記憶……?」
「ええ」マグノリアは星を見上げながら答えた。
「笑顔一つが命より重かった世界の記憶よ」
「じゃあ、なぜ今戦うの?」
マグノリアは顔を向け、片方だけ口角を上げて笑った。
「だって彼は嘘をつかない。ハルトは思ったことをそのまま言うし、英雄ぶることもしない。
それが、私の知る“英雄”たちよりも、ずっと人間らしいの」
カオリは目を伏せ、頬をわずかに染めた。
「だから…彼は、ついて行きたくなるような人なんだと思う」
マグノリアはいたずらっぽく微笑む。
「“ついて行きたい人”…それとも“愛したい人”?」
カオリはさらに赤くなった。
「ち、違います!」
「安心しな。戦う理由になるなら、愛だって立派な武器よ」
数時間後、皆が眠りについた頃。
カオリは静かにハルトのもとへ向かった。
彼はまだ起きており、試合で使われる魔法の封印を確認していた。
「ご主人様…」
「眠れないのか?」ハルトは視線を外さぬまま訊ねた。
「ええ。…明日、死ぬかもしれないと思うと」
ハルトが彼女を見たとき、そこにあったのは恐れではなかった。
それは、あたたかい光のようなものだった。
カオリは続けた。
「昔の私は弱かった。誰かの後ろに隠れて、ただ生き延びるだけで精一杯でした。
でもあなたに出会って、自分を見ることを“強いられた”んです」
「俺は、誰にも強いた覚えはない」ハルトは低く応えた。
「でも…無意識のうちに、あなたはそうしてくれたんです。
だから…もし明日死ぬことがあれば、感謝を伝えたかった」
ハルトはしばらく沈黙した。
何を言えばいいのか、久しぶりに分からなかった。
彼はただ、カオリの肩に手を置いて言った。
「なら、まだ死ぬな。
お前の声が、まだ俺には必要だ」
カオリは静かに涙を流しながら微笑んだ。
そのさらに遠く、エイルリスは雪の中に立ち、北の空を見つめていた。
マグノリアが肩にマントをかけながら近づく。
「凍えても強くはならないよ?」
エイルリスはすぐには答えなかった。
「私の世界では、氷は“感情を持たない”と言われていた。
でも私は、感じている。怒りも、希望も…そして恐怖も」
「恐怖?」マグノリアが問いかける。
「もし勝ったとして…私たちが、なぜ始めたのかを忘れてしまうのではないかって」
マグノリアはため息をついた。
「安心しな。その男がいる限り、忘れる方が無理よ」
エイルリスは初めて微笑んだ。
「なら、私は彼を“覚えているため”に戦う。
ただ“従うため”じゃない」
夜明け前、ハルトは静かに野営地を離れた。
沈黙の中、彼の心にはかつての日々がよみがえる。
嘲るような笑い声。
廊下での突き飛ばし。
見て見ぬふりをする親たち。
軽蔑を込めて呼ばれる、自分の名前の響き。
そして、涙を浮かべながら回し続けたガチャの画面。
SSRのカードは、最後まで出なかった。
「それが唯一、運があると感じられる方法だった……
たとえ、それが嘘でも。」
彼は拳を握った。
怒りからではない。決意からだった。
「もし、あの頃の少年が今の俺を見たら…
きっとこう思うはずだ。
復讐じゃない。
俺が求めているのは、“正義”なんだと。
世界に拒まれた者たちが、それでも立ち上がれる“正義”だと。」
太陽が昇り始め、空を金色に染めていく。
その光の中で、ハルトは野営地へと戻った。
アウレリアが待っていた。戦いの準備は整っている。
カオリとマグノリアも後ろで装備を確認していた。
エイルリスは氷の紋章を召喚し、空気が張りつめていく。
ハルトは澄んだ声で言った。
「今日、我らは俺のために戦うのではない。
我らの“自由”のために戦うのだ。
召喚されたのは、仕えるためではない。
“選ぶため”だったと、証明するために。」
四人は力強く頷いた。
遠くで、闘技場の銅鑼が鳴り響く。
夜が終わり、夜明けが始まった。
――つづく。




