現実の檻
北の王宮の塔を、氷の風が激しく叩いていた。
征服されたばかりの玉座の間は、夜の帳に包まれ、
静寂があまりにも濃く、
氷が壁の内側でひび割れる音さえ聞こえてくるほどだった。
その中心に、ハルトが一人で座っていた。
虚空を見つめるその瞳は、まるで過去に沈み込むかのようだった。
彼の前には、黄金のランプがほのかに灯っていた。
揺れる炎が映し出す顔は、疲れ果て、もはや別人のようだった。
「……今の俺は、誰なんだ……?」
掠れた囁きが柱の間に反響し、
その余韻とともに――
記憶が、流れ込んできた。
――日本。
白い蛍光灯に照らされた教室。
時計は7時半を指し、
窓際の席には、空を見つめる少年・藍沢ハルトの姿。
「またお前かよ、藍沢。」
「その顔、マジ無理。人の目も見れねえとか。」
笑い声。
背中を押され、ノートが床に落ちる。
インクが滲むページ。
拾おうとした瞬間、脇腹に蹴りが入った。
誰も助けない。
笑う者、目を逸らす者。
教師たちは知っていた。でも、見て見ぬふりをした。
父が呼び出されたこともあった。
だが、帰宅した彼は、ただこう言った。
「ハルト、我慢しろ。
ああいう奴らに関わるだけ無駄だ。」
――でも、
信じるものも、頼るものも失った心は、
いつまで我慢できる?
家では、壁が薄く感じられた。
母は何も言わずに料理を作り、
父は黙ってテレビの前で酒を飲む。
言葉は、空気に浮かぶ刃物のようだった。
「喋っても傷つくだけなら――黙るしかない。」
そうしてハルトは、話すのをやめた。
笑うのをやめた。
期待することをやめた。
そして、あの夜――
彼は出会った。
Eternal Summon
画面に輝くそのタイトルは、
現実が与えてくれなかったものを約束していた。
――「力」だ。
ガチャの一回一回が、祈りだった。
儀式だった。
コインの音。光の演出。魔法陣の回転。
心臓が高鳴る。
「……お願い……何でもいいから。」
「SSR……来てくれ。」
レアキャラを引けたとき、
彼は笑った。
ほんの数秒だけ、自分が“存在している”と感じられた。
でも、ハズレを引けば、虚無が戻る。
「……俺は何者でもない。
ここですら。」
やがて、彼は依存し始めた。
課金、課金、また課金。
勝ちたいのか、存在を確かめたいのか――
わからなくなっていた。
そして、あの日が来た。
空が裂け、声が響いた。
「選ばれし者たちよ、境界を越えよ。」
光に包まれ、
ハルトは異世界に降り立った。
魔法、剣、栄誉、怪物たちの世界。
だが、それは「奇跡」ではなかった。
むしろ、「罰」だった。
――全員、スキルを得た。
――ハルトだけが、「無能力」。
「使えない奴。」
「ここでも邪魔者かよ、藍沢。」
希望が芽生えた瞬間、それはまた踏みにじられた。
そして、モンスターが現れた時――
他の“英雄”たちは逃げた。
転送石を使い、見捨てた。
血。
冷たさ。
森に響く咆哮。
ハルトは土に膝をつき、
涙をこぼし、心が崩れるのを感じた。
――その時。
《発動:無限召喚(Unlimited Summon)》
金色の魔法陣が彼を包み、
その中から、彼女が現れた。
アウレリア。
金髪。
魂を見抜くような青い瞳。
闇を裂く翼。
彼女は、手を差し伸べた。
「あなたは独りじゃない。
私が共に戦う。」
生まれて初めて――
誰かが彼を“選んだ”。
同情ではなく、信頼で。
その夜。
ハルト・藍沢は、少年をやめた。
**“執行者ハルト”**が生まれた。
…
玉座の間で、ハルトは目を開いた。
いつの間にか、カオリが入っていた。
湯気の立つお茶の盆を持って、静かに膝をつく。
「……ハルト様。」
彼女の声は、穏やかだった。
「その顔、見たことがあります。裏切られた者の鏡に。」
ハルトは微かに笑った。
「過去は消えない。ただ、隠し方を覚えるだけだ。」
カオリの瞳に、わずかな哀しみが滲む。
「それでも……なぜ戦うのですか?
復讐のためですか? それとも正義のために?」
ハルトは湯呑を見つめた。
その表面に映る、自分の顔。
彼の声は、鋼の糸のように静かに響いた。
「自由のためだ。
……俺のように、踏み潰されてきた者たちのために。」
カオリは笑った。
それは敬意と誓いの笑みだった。
「ならば、世界に震えが走るでしょう。
あなたは、もう独りではありませんから。」
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