選択の影
北の王宮には、煙と冷えた蝋、湿った木の匂いが漂っていた。
玉座の大広間では、王オルドレンと王妃レネが、互いの目を揺らめきながら見つめ合っていた。
広げられた王国の地図には、損失を示す無数の針が突き刺さっている。守備を失った村、遮断された街道、沈黙する前哨地。
取り囲む廷臣たちは声を潜め、ささやく。
恐怖が壁の隙間にまで染み渡っていた。
遠くで、ラッパの音が鳴った。
誰も、窓を開けて確かめようとはしなかった。
衛兵が震える声で告げた。
「南方より…太陽の使節団が、黄金の旗印を掲げてまいりました。」
扉が開く。
カオリが、銀の鎧に身を包み、毅然と歩み入る。
マグノリアは帽子を目深にかぶり、弓のようにドアに銃を立てかける。
ライラは霜の香るマントを羽織り、静かな気配をまとっていた。
その後ろには、濃紺のフードを被り、影のような翼をたたんだエイルリス。
誰も礼を取らなかった。これはただの和平交渉ではないことを、誰もが理解していた。
まず口を開いたのはカオリだった。
その声は明瞭で、敬意を保ちながらも揺るぎなかった。
「オルドレン陛下、レネ陛下。
“執行者ハルト”より、二つの道をお届けに参りました。」
王は目を細めた。
「――道、だと?」
「第一の道。王位を退き、太陽が認めた土地へと安全に退去すること。
食料、住居、名誉は保証されます。これは“栄誉ある亡命”です。
第二の道。玉座にとどまり、民と共に抗うこと。
その場合、太陽の軍は容赦なくこの城を制圧し、数十、あるいは数百の命が犠牲になります。」
マグノリアが片口で笑い、言葉を継ぐ。
「昨夜、希望を折る戦いを見たばかり。
もう、剣を握る手も残っていないでしょう?」
広間が凍りついたように静まり返る。
一人の参事官が立ち上がった。
その顔は血の気を失い、言葉は揺れていた。
「……だが、英雄たちは? 我らの盟友はどこに?」
ライラが低い声で答える。
「残った英雄たちは無力化されたか、散り散りです。
昨夜、宮廷の魔術師たちが封印を破ろうとしましたが――不十分でした。」
エイルリスはただ一言を落とす。
その声は刃のように重く、鋭く。
「これは、力の問題ではない。時間の問題だ。
戦が続けば、王国は中から崩れる。
飢餓、反乱、略奪。
太陽は秩序をもたらす。抵抗は、破滅を招くだけ。」
王オルドレンの指が肘掛けを握りしめる。
王妃レネは遠くの幻を見つめながら呟く。
「我らに“守り”を誓った者たちは…どこに?」
カオリが一歩前に出る。
その声にはわずかな柔らかさが宿っていた。
「今なら、“尊厳”を守れます。
最後に残すのが、死と飢えの記憶で良いのですか?
それとも、静かな別れの光景を選びますか?」
参事官たちが目を交わし始める。
家族のことを思う者、血の誓いを忘れぬ者。
それぞれの“正義”が、心を引き裂いていた。
一方その頃、外の広場では――
伝令が声高に叫ぶ。
「太陽は言う。玉座の返還と引き換えに、平和を。」
民たちは揺れた。
泣き崩れる者。
拳を掲げて叫ぶ者。
“生き延びたい”者と、“譲れぬ誇り”を抱く者。
寺院の祭司たちは、震える手で蝋燭に火を灯す。
大司祭は唇をかすかに動かしながら問う。
「もし我らが冠を手放せば、この民に残る希望は――何だ?」
貴族たちの怒声も加わる。
それはガラスの檻の中に響く、内なる嵐だった。
遠くの城壁に立つエイルリス。
その姿は沈黙そのもの。
マグノリアは群衆の中を巡り、目を光らせ、名前を記憶していく。
――ハルトが扉を破る必要などない。
ただ、影を落とすだけで“意志”は崩れる。
王はゆっくりと立ち上がり、バルコニーへ歩いた。
見下ろす民――
ボロに身を包んだ男たち、
年齢よりも老いた瞳を持つ子どもたち。
王冠の重みが、鉛のように首を締める。
そして振り返り、壊れかけた声で言う。
「私の義務は…この民の声となること。
だが今、ここで去れば――それは“逃避”か?
それとも…“救い”か?」
王妃は涙に濡れた眼で夫の手を握る。
「オルドレン……あなたが残り、私が死ねば、
未来に何が残るの?
行こう。
まだ、孫たちのために――何かを築ける。」
「もし退位すれば、我らは何者でもなくなる!」
貴族の一人が叫ぶ。
「だが戦えば、子どもたちは太陽の兵の剣に散る!」
別の者が震える声で返す。
王は目を閉じた。
呼吸が浅く、世界が圧縮されるようだった。
外では、伝令が声を張り上げる。
「選べ。
命と共に生き延びる道か――
誇りと共に、死にゆく道か。」
沈黙は、もはや耐え難いものとなっていた。
王オルドレンは、震える手をゆっくりと掲げた。
その唇が、王国の運命を定める言葉を紡ごうとしていた――
「民のために……」
そう、彼は言いかけた。
その瞬間、扉が荒々しく開かれ、
雪と血にまみれた伝令が駆け込んできた。
肩で息をしながら、目を泳がせる。
王妃か、誰か助言者か――誰でもいい、誰かに届けるために。
震える声で叫ぶ。
「陛下! 西からの急報です……
ある辺境の領主が――
ハルト殿下に忠誠を誓い、峠を封鎖したとの噂が……!」
空気が凍る。だが、伝令の声は止まらない。
「それだけではありません……」
彼は、雪に濡れてくしゃくしゃになった紙を差し出す。
「……ユウト・タカミネ宛ての手紙が……
彼は……生きていました。
老いた姿で、国境で目撃されています。
……だが……来ないと……そう書かれていました。」
王妃レネは震える指でその紙を受け取る。
まるで夢を掴むかのように、現実を拒む手で。
広間が揺れる。
王の言葉は、空中に置き去りにされる。
誰も続きを求めようとしない。
カオリとマグノリアが一瞬だけ視線を交わす。
その目は、思考の速さと警戒を物語っていた。
そしてエイルリスは、何も言わず、静かに息を吸った。
決断は――延期された。
あるいは、すでに変わったのかもしれない。
外の広場では、群衆が息を潜める。
沈黙は風よりも重く、凍てついた時が城を包んでいた。
そして、かつて英雄が「この地を守る」と誓ったあのバルコニーに、
今、王冠が黄金の光を受けて微かに輝いていた。
その光は問いかけるようだった――
「生き延びるために、何を捨てる覚悟があるのか?」
――つづく。




