北征の影
北の雪は止むことなく降り続けていた。
戦争会議の間、地図がテーブルに広げられ、サヤカは巻物に囲まれ、外科手術のような正確さでルートを記していた。
「風は追い風だ」とライラが言った。「だが、寒さが強すぎてドラゴンは飛べない。」
「では、地下ルートを使うわ」とサヤカは顔を上げずに答えた。
「モモチが確認したわ。北の鉱山とフレイガルドの城壁を繋ぐ古いトンネルがある。」
アウレリアが地図に両手を置いた。
「地下からの侵入は遅くなるが、気づかれない。」
「それが狙いよ」とサヤカは答えた。
「これからの戦争は、叫び声ではなく精密さで勝つもの。」
カオリは黙って様子を見ていた。視線は窓辺のハルトに向けられていた。
彼は霧に包まれた地平線を見つめていた。
その顔には、もはや迷いや怒りはなかった。ただ、突き通すような空虚があった。
ライラが静かに近づいた。
「ハルト様… 戦略について何かご意見は?」
ハルトは目を離さずに答えた。
「戦略では魂を救えない。ただ、未来は救えるかもしれない。」
アウレリアが眉をひそめた。
「まるでこれは罪の償いみたいな言い方だな。」
「…その通りだ。」
「勝ったとしてもか?」
「むしろ勝てばこそ、だ。」
カオリが一歩前に出た。
「ハルト… あなたはすべてを背負う必要なんてない。」
彼はゆっくりと振り向いた。声は静かだが、言葉一つ一つが鉛のように重かった。
「カオリ、俺に贖罪を求めるな。俺にはその資格がない。」
「俺は、この世界が望んだ“英雄”じゃない。
俺は… その報いだ。」
沈黙が降りた。
炎の軋む音だけが響いていた。
その空気を破ったのはサヤカだった。
「信仰があなたを許せないなら、恐怖に従わせるしかない。」
ハルトは頷いた。
「そうしよう。」
サヤカは黒曜石の駒を地図に置いた。
「ユウトの軍は三つの要塞を形成している:氷の要塞、西の壁、そして『残響の神殿』。」
「夜明け前に第一線を突破すれば、一週間以内に抵抗は崩れる。」
モモチが影の中から現れた。
「すでに風の鎖に爆裂符を仕込んだ。誰にも気づかれない。」
アウレリアが微笑んだ。
「完璧だ。空の合図とともに、ドラゴンが空を覆う。」
サヤカがハルトを見つめる。
「残るは… あなたの命令だけ。」
ハルトは近づき、地図を見下ろした。感情のない声で言った。
「作戦を開始しろ。」
「作戦名は?」とライラが尋ねた。
ハルトは視線を下げ、低くつぶやいた。
「《赦されぬ夜」
***
その夜、キャンプは炎と沈黙に包まれていた。
カオリは一人で歩き、ハルトが剣を研いでいるテントへ入った。
「また眠れないのね。」
「いや。終わるまでは眠らない。」
カオリは彼を見つめ、声を震わせながら言った。
「なぜ…自分を許さないの?」
ハルトは剣を置き、答えた。
「赦しなんて、生者の贅沢だ。」
「俺はもう、人間じゃない。
俺が死んだのは、仲間に見捨てられたあの日だ。」
言葉を返そうとする前に、ハルトは立ち上がった。
その金色の瞳には、怖いほどの光が宿っていた。
「もし俺が倒れたら、泣かないでくれ。
俺の名を、この世界に刻んでくれればそれでいい。」
カオリは言葉を失い、拳を握りしめた。
彼はテントを出て行った。
闇の中、彼のマントだけが風に翻っていた。
雪は赤と金に染まり、
アウレリアが咆哮と共に空へ舞い上がる。
モモチとライラは氷原を駆け、敵の斥候を次々と仕留めた。
カオリは地上部隊を率い、太陽の下で槍を輝かせながら進軍する。
丘の上ではサヤカが冷たい目で戦場を見つめ、すべての動きを計算していた。
前線には――
ハルトがただ一人、嵐の中を進んでいた。
風が彼のマントを舞い上げ、
その姿はまるで世界の終わりへ向かう神のようだった。
「北よ、震えて待て」
彼は低く呟いた。
「赦しは――俺と共に死んだ。」
空が金色の雷鳴を轟かせる。
北をめぐる戦争が、いま始まった。
――つづく。




