ゼロ作戦
フレイガルドの戦争司令室は、乾いた血の跡が残る地図と巻物で覆われていた。
高峰悠人は、冷たい視線で大陸全体を見渡していた。
その向かい、鏡俊介は黙々と剣を拭っている。
「……いつ、命令を出す?」
俊介の問いに、悠人は黒くひび割れた魔石を掲げて答えた。
「――もう出した」
「“作戦コード:ゼロ”……既に始まっている」
その瞬間、闇の中から一人の女性が前へ歩み出る。
暗い紫の髪、灰色の瞳、落ち着いた気配を纏った者。
「名前:水無月サヤカ」
「ハルトの元クラスメイト。かつては、クラス最高の戦術士」
俊介は興味深そうに笑みを浮かべた。
「……あいつ、お前の顔を覚えてると思うか?」
「ええ」サヤカは表情を崩さずに答える。
「それが、私の狙いです」
悠人は騎士団の紋章が刻まれたペンダントを渡す。
「任務は単純だ。黄金の王国に潜入しろ」
「北から逃れてきたと見せ、庇護を求めろ。信頼を勝ち取れ」
「……そして、“時”が来たら、この印を発動しろ」
「この印……何をするの?」
「――呪詛の“残響”を解放する」
「ハルトが何かを召喚すれば、それは我々の手の中に堕ちる」
サヤカは静かに頷く。
「……それなら、ゲームを始めましょう」
***
三日後――
激しい嵐が黄金の王国の城壁を打ちつける夜。
見張り台から、雪の中をよろめきながら進む人影が確認された。
ボロボロのマント、震える声。
「お願い……撃たないで……私は人間……!」
その女はすぐに城へ運ばれ、カオリとアウレリアの前に連れ出された。
身体は新しい傷で覆われ、
瞳は涙に濡れ、言葉は震えていた。
「水無月サヤカ……。
あなたたちと同じ“召喚者”です……北から逃れてきました」
「高峰悠人……あの人は……恐ろしい計画を進めている……
お願い……助けて……」
カオリは警戒したまま彼女を見つめる。
「どうして、ここに来たの?」
サヤカは目を伏せた。
「ハルト……彼だけは、“ただ殺されて終わるべきじゃない”……」
アウレリアが腕を組む。
「言葉には毒があるが、恐怖は本物だ」
「……何を恐れている、人間?」
サヤカは呟いた。
「“何もしないまま死ぬこと”を……」
カオリとアウレリアは視線を交わし、
ついにカオリが頷いた。
「――ハルト様が判断されます」
***
玉座の間。
サヤカは膝をつき、ハルトを直視しないようにしていた。
金色の炎が壁に揺れ、影が床を這っていた。
「……また一人、俺たちの“クラス”からか」
ハルトは片肘をつきながら言う。
「同盟者として来たか? それとも――スパイとしてか?」
サヤカの肩が震える。
「ただ……死にたくないだけ」
ハルトはゆっくりと立ち上がり、
彼女へと歩み寄る。
「――あの断崖で俺が堕ちたとき、誰も振り返らなかった」
「今になって、“庇護をくれ”とは……」
「なぜ信じるべきだ?」
サヤカは、初めて彼を真正面から見た。
「……私は裏切りに来たのではありません」
「理解しに来たのです」
緊張が空間を包み込む。
カオリは息を呑み、アウレリアは眉をひそめる。
だが、ハルトは――処刑命令を出さなかった。
「……よかろう」
「ここに残れ。
だが、もし嘘をついていたら――
その罪は、“ガチャ”が裁く」
サヤカは深く頷く。
だが――その背中を向けた瞬間、
彼女の目は冷え切った鋭さを取り戻していた。
(ハルト……あなたはいつも、読めない男だった)
(だが今回は、私の方が“先手”を取っている)
***
深夜。
サヤカは誰もいないバルコニーに立ち、
ペンダントを手に取った。
それは、悠人から渡された呪印の鍵。
「……フェーズ1完了。信頼獲得」
だが、その時。
ペンダントが震え、光を放ち始める。
――それは、城ではなく“彼女自身”に反応していた。
「……なっ……何これ……!?」
その瞬間、声が脳内に響く。
「――水無月サヤカ。
お前の心は、すでに“お前のものではない”」
彼女の腕に黒い紋章が浮かび上がる。
操作型呪詛――“作戦コード:ゼロ”の真の目的。
それはスパイではなく、
サヤカを**“生ける傀儡”**に変える儀式だった。
「やめてっ……やめてッ!!」
苦痛に満ちた叫びが夜を裂く。
サヤカは膝をつき、涙とともに地面を叩いた。
「ユウト……くそがっ……!」
その気配を感じ取ったのは、眠っていたカオリだった。
「……今のは……魔力の歪み!?
――東翼のバルコニー!?!?」
彼女は即座に立ち上がり、杖を手に取った。
そして――運命の夜が動き出す。
ハルトが到着したとき――
サヤカはすでに倒れかけていた。
首元に刻まれた黒い印が灼けるように輝き、
その瞳は、灰と黒の間で揺れていた。
「……何をされた」
ハルトの声は低く、しかし揺るがぬ怒気を秘めていた。
サヤカは苦しげに言葉を絞り出す。
「……私の身体を……“錨”にしたの。
この国を……見張るための……。
あなたが“ガチャ”を使えば……あの人たちに伝わる」
ハルトは彼女を抱き上げ、
その眼差しに揺るがぬ決意を宿す。
「――ならば、無力化する」
その瞬間、アウレリアが駆け込んできた。
戦闘態勢のまま、状況を察知する。
「手遅れでは……? どうするつもりか、ハルト様」
ハルトは静かに顔を上げた。
その声は、死のように冷たく、静かだった。
「接続を断つ。
……たとえ、それが“魂”を裂くことになっても」
炎の灯火が彼の頬を照らす。
その眼に迷いはない。
そして――
その夜が明ければ、
始まるのは刃の戦ではない。
目に見えぬ影の戦場。
魂と意志の戦争。
スパイと裏切り者たちが交差する、静かなる地獄。
――つづく。
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