北方の罠
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北からの冷たい風が吹きつけ、金属と雨の匂いを運んできた。
半ば空いた酒場には、油ランプの灯りだけが揺れていた。
その片隅で、一人の男が三杯目の酒をゆっくりと飲んでいた。
その手はわずかに震えていたが、寒さのせいではない。
成功の余韻――アドレナリンの高鳴りによるものだった。
男の名は田中涼平。
乱れた黒髪、鋼のように冷たい灰色の瞳、そして滅多に見せない皮肉な笑み。
かつてハルトの仲間の一人だった――異世界に召喚された多くの一人。
だが、勇気で名を残したことはなかった。
唯一際立っていたのは、その特異なスキル:完全隠匿。
存在を完全に消し、周囲に溶け込むその力で――涼平は多くの死をすり抜け、生き延びてきた。
数ヶ月前、彼を見つけたのは高峰悠人と鏡俊介だった。
彼らの提案に、涼平は迷わず頷いた。
「金と守り、そして目的を与えてやる」
静かな声で悠人は言った。
その隣で、俊介が剣を机に置きながら微笑む。
「欲しいのは情報と混乱だ。それだけでいい」
その言葉を、涼平は今も覚えている。
酒を口に含みながら、ぽつりとつぶやいた。
「混乱を撒け、か……楽な仕事だ」
虚ろな眼差しに浮かぶのは、傲慢と疲労の入り混じった光。
彼が望んだのは責任も命令もない、戦いのない人生――
今、それを手に入れていた。
酒場の主――灰色の前掛けをした老人が声をかけた。
「もうすぐ夜明けですよ、田中さん。そろそろお帰りでは?」
「もう一杯だけ」
涼平は気怠げに返した。
「これが最後って約束するよ」
老人は頷き、酒を取りに奥へと引っ込む。
そのとき、足音。
静かで柔らかなそれが、沈黙を破った。
黒いマントを纏った人物が隣に腰掛けた。
フードの下から、銀色の髪が肩に流れ落ちる。
涼平は横目で彼女を見た。
口元がわずかに歪む。
「ほう……ここらじゃ見ない美人だな」
女は静かに笑った。
その声は甘やかでありながら、不気味な何かを孕んでいた。
「酒の趣味がいいわね。その種類、飲める人は少ない」
「へぇ?」
涼平は瓶を掲げる。
「なら、共に一杯どうだ? 一人酒は好かなくてね」
彼女はゆっくりと頷く。
「もちろん。だって――それがあなたの最後の一杯になるかもしれないから」
涼平は笑った。
「俺の選択って、そんなにひどいか?」
「いいえ」
彼女は彼の耳元に近づき、囁く。
「ただ……あなたが選んだのは、間違った側だっただけ」
空気が変わった。
涼平の身体がこわばる。
北からの冷気が、割れた窓から忍び込む。
「……なんだと?」
彼女はまっすぐ彼を見つめた。
その瞳――氷のような蒼が、月の光を映していた。
「噂をばら撒いていたのは……あなたね」
「お、お前……誰だ……?」
女は微笑む。
「終わらせに来た者よ」
涼平は立ち上がろうとした。
だが、体が動かない。
酒の味が、変わっていた。
カップを見下ろし、そして理解する。
「……お前……毒を……」
女はゆっくりと立ち上がり、フードを脱いだ。
リラ・フロストベイン――氷の魔女。
月光のような髪が揺れ、手には氷晶が静かに形成されていく。
「安心して」
彼女は穏やかに笑う。
「苦しむことはないわ。ただ……永遠に眠るだけ」
氷は涼平の足元から胸へと広がり、
その顔に浮かぶのは、純然たる恐怖。
彼の最後の言葉は、かすかな囁きだった。
「……くそっ……ユウト……カガミ……」
リラは完全に氷に閉ざされた男の姿を見つめた。
それは完璧な彫像。
そして――ひとつの“警告”。
彼女は小さな宝石を取り出し、魔法の印を押して囁いた。
「――噂は消えました、ハルト様」
宝石が短く光り、声は彼へと届く。
そして彼女が指を鳴らすと、氷の彫像は音もなく、塵と化した。
遥か遠く、北方の雪原にて。
高峰悠人は、目の前に広げられた地図を静かに見つめていた。
その隣で、鏡俊介が剣をゆっくりと研いでいる。
「涼平からの連絡は?」と、鏡が尋ねた。
悠人は首を横に振る。
「何もない」
二人は視線を交わした。
沈黙――それが、すべてを物語っていた。
鏡はほろ苦く笑った。
「つまり……ハルトに知られたってことか」
悠人はため息をつく。
「ああ。
つまり、次の一手は……
こちらから仕掛けるしかないということだ」
地図の上、赤いインクで印された「黄金の王国」が不気味に光っていた。
その上には、手書きの矢印が北を指している。
「見えざる戦争が、始まる」
――つづく。
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