黄金の視界
夜明けの光が、黄金の王国の城壁をやさしく包み込んでいた。
リン・カンザキは市場の通りを歩いていた。
市民たちは騒ぐことなく穏やかに物を売買し、
衛兵たちは年寄りの荷物を運び、
子どもたちは恐れることなく笑いながら走り回っていた。
「……こんなの、現実じゃない。」
リンは小さくつぶやいた。
彼女は幼い頃から権力を疑い、
“支配する者”を憎んできた。
だがここで見る権力は、
“押さえつける”のではなく――“導いて”いた。
若い衛兵が近づいてきた。
「旅の方? 何かお探しですか?」
リンは首を横に振る。
「……見てるだけ。」
衛兵は微笑んだ。
「なら、見ていくといいですよ。
――正義が、ちゃんと働いている場所を。」
その言葉に、リンは拳を強く握った。
「正義」――
それは他人の口から聞くたび、空虚に響く言葉だった。
けれど今は……なぜか胸に残った。
***
訓練場では、ユウト・アマミヤが兵士たちの稽古を見守っていた。
掛け声も罵声もない。
代わりにあったのは、整った動き、静かな集中、
そして、強き者が弱き者を導く姿。
自分がずっと夢見ていた――
“理想の軍”がそこにあった。
一人の隊長が彼に声をかける。
「君は……英雄、ユウト・アマミヤか?」
「昔はな。」
ユウトは答える。
「ここでは、“過去形”は必要ない。
力があるなら使い、ないなら学ぶ。それだけです。」
ユウトは困惑しながら尋ねる。
「……失敗しても、罰はないのか?」
「“失敗”そのものが罰ですよ。」
隊長は穏やかに笑った。
「そして、“学ぶ”ことこそがご褒美です。」
ユウトは視線を落とす。
かつての世界では、失敗は死に値した。
成功こそがすべてだった。
彼は、ふと気づく。
ハルトが築いたこの軍こそ――
かつて自分が望んでいた、
だが決して持てなかった未来だったのだ、と。
***
《太陽の神殿》は、静かだった。
豪華な祭壇もなければ、傲慢な神官もいない。
いるのは、治療をする医者と手伝うボランティアたち。
種族も身分も関係なく、等しく手を差し伸べていた。
ミヤビ・アサクラは、小さな少年の傷を包帯で巻いていた。
その様子を見ていた年配の女性がつぶやく。
「昔は、金持ちが先だったんですよ。
でも今は、みんな“太陽の下”で平等です。」
ミヤビはほほえんだ。だが胸の奥では、
微かな“罪悪感”が波のように広がっていた。
――もし彼が、これほどのものを築けたのなら。
果たして自分は、彼を“化け物”と呼ぶ資格があるのか。
その夜、彼女は日記帳にこう書いた。
正義に“白”も“黒”もない。
あるのは、見る者の心によって変わる“光”。
***
錬金術の塔では、カガミ・ヒロトが王国の技術を見つめていた。
研究室は市民に開放されていた。
学んでいるのは農民、女性、孤児たち――
かつて“教育の外”にいた者たちばかりだった。
一人の少年が、彼に魔力で熱を生むタブレットを見せた。
「これで、貧しい家にも暖かさを届けられるんです。
ハルト様は言いました。
“思いやりのない科学は、知恵とは呼ばない”って。」
カガミは目を閉じた。
彼の錬金術は、
氷を操ること――“支配”のために生まれたものだった。
だがここでは、
“命を温めるため”に使われていた。
夜の帳が下りる中、彼はつぶやく。
「……彼が築いているのは“帝国”ではない。
未来だ。」
***
ナオヤ・テンドウは、庭園の中央に立っていた。
そこには、顔のない男が松明を掲げる石像があった。
その台座には、こう刻まれていた。
「忘れられた者が、皆の必要とする炎を灯した。」
ナオヤは長くその場を動けなかった。
風がコートを揺らし、
彼の中にあった誇りと後悔の境界が――揺らぎ始めていた。
遠くから、一人の少年が近づいてきた。
「君、ハルト様の友達?」
「……昔はな。」
少年はにっこりと笑った。
「だったら伝えて。
“ありがとう”って。
光をくれて、ありがとうって。」
ナオヤは動けなかった。
その少年は、笑いながら走り去っていった。
――自分がかつて、見捨てたはずの“救世主”を、今は英雄として慕う民の一人として。
その事実だけが、
彼の心を――静かに、深く、刺した。
***
七日が過ぎた朝――
かつて対峙したあの《蝕の間》に、彼らは再び集まっていた。
誰一人、言葉を発さなかった。
リンは弓を握りしめ、
ユウトは視線を床に落とし、
ミヤビは声もなく涙を流し、
カガミはただ、静かに天井を見上げていた。
ハルトは、何も言わずに彼らを見つめていた。
そのまなざしには、勝者の誇りも、赦しの慈悲もない。
ただ、沈黙の真実があった。
最初に口を開いたのは、ナオヤだった。
「……ハルト。
お前が神なのか、それとも“この世界の間違い”なのか……正直、まだ分からない。
でも一つだけ、確かに言えることがある。」
彼は、ゆっくりと言葉を続けた。
「お前が築いたものを――
俺は、もう“壊せない”。」
ハルトは、ゆっくりと玉座から立ち上がった。
「ならば、理解したのだな。
私は征服者ではない。
私は、“修正者”だ。」
誰も否定しなかった。
黄金の王国は、彼らと共に息をしていた。
そして、玉座の背後から差し込む朝日が、
ハルトの影を壁一面に広げる。
その瞬間、誰もが心の奥で、しかし決して口に出すことのない思いを抱いた。
――“止めるべき”と誓ったこの“敵”こそが――
自分たちには決して築けなかった“理想”を、
すでにこの手で実現していたのだ、と。
――つづく。




