鋼の別れ
***
吹雪はなおも降り続き、王国全土を氷の帳で覆っていた。
軍の駐屯地では、兵士たちが休むことなく動き続けていた。
壁を補強し、松明に火を灯し、厩舎を守る。
誰一人として、雪など見たことがなかった。
これほどの寒さを感じたこともなかった。
リュウスケ・ハタナカ将軍は、青の指揮官マントを翻しながら兵士たちの間を歩いていた。
吐く息は白く凍り、足元の霜がきしんだ音を立てる。
副官がひとり、駆け寄ってくる。
「将軍、兵は配置済みですが……この気候が武器に支障を」
「マスケット銃は作動せず、馬も……耐えられておりません」
リュウスケは黙って空を仰いだ。
重く、沈むような灰の空。
「これはただの天気じゃない。──宣告だ」
「敵は我々に告げている。これは戦争ではない。審判なのだと」
副官がごくりと喉を鳴らす。
「……どういたしますか、将軍?」
将軍は拳を強く握りしめた。
「いつも通りだ。
空が我らを憎もうと、我々は──戦う」
*
その夜、将軍は屋敷に戻った。
暖炉の火が揺れ、家族の顔を橙色に照らしていた。
妻のサヤカが、震える手で温かいスープを差し出す。
子どもたち、レンとミナは、父が鎧のまま家に入ってきたことに戸惑っていた。
「パパ……また戦いに行くの?」と、ミナが人形を抱えながら訊いた。
リュウスケは娘の髪をそっと撫でた。
「ああ、小さな天使。少しだけな。すぐ戻る」
だが、サヤカは涙をこらえた瞳で見つめ返した。
「嘘をつかないで、リュウスケ。
あなたの目……もう戻るつもりの目じゃない」
スプーンがテーブルに置かれる。
沈黙が食卓を支配した。
外では、風が窓を軋ませていた。
「長年、私はこの王国に仕えてきた」
「規律と忠誠こそが守る術だと、信じていた」
「……だが今は分かる。言葉など、崩壊の前では無力だ」
サヤカは冷たくなった彼の手を取り、その指を包み込んだ。
「なら、王国のためじゃなく……意味のあるもののために戦って」
「……私たちのために」
リュウスケはかすかに笑った。
その笑みに、悲しみが滲んでいた。
「もし私が死ぬなら──
君たちが生きられるように、だ」
*
出発の前に、彼は階段を上がり、子どもたちの寝室へ向かった。
レンは木の剣を抱いて眠り、ミナは海の音の夢を見ていた。
寝息が柔らかく、部屋に安らぎが漂っていた。
彼は静かにその姿を見つめた。
鋼の仮面のようだった表情が、一瞬だけ、崩れる。
ベッドのそばにひざまずき、声を潜めて囁いた。
「……大きくなったとき、父の戦争は忘れていい」
「だが声は覚えていてくれ。
お前たちの父だった男が、勝利よりも──お前たちを愛したことを」
廊下に出ると、サヤカが彼を待っていた。
首にかけたのは、金色の太陽を模した小さな護符。
「これを。あなたを守ってくれるように」
声は震えていた。
「……太陽の護符?」リュウスケは目を細める。
「この印の意味を、君は……」
サヤカは彼の瞳を見つめ返した。
「意味なんてどうでもいい。
ただ──あなたが帰ってきてほしいだけ」
彼は強く、深く、彼女を抱きしめた。
「もし天があるなら……その光の中で私を思い出してくれ」
「もし闇だけなら……この雪の中に、私を探してくれ」
*
夜明け。
風が咆哮のように吹きすさび、軍の旗は吹雪に翻った。
リュウスケは馬に跨り、青のマントが白の世界に影を落とした。
兵たちは無言でその背中を見送る。
皆、分かっていた。──今日は地獄へ進軍する日だ。
将軍は剣を空へと掲げ、声を張り上げた。
「王国の兵たちよ!」
「死ぬなら、誇り高く、立って死ね!」
「この雪を……我らの意志の炎で染め上げるのだ!」
兵士たちの咆哮が谷を揺らす。
絶望と、名誉と、恐怖が混じった雄叫び。
*
遠く離れた丘の上、ハルトはその光景を見下ろしていた。
ライラがスコープを調整する。
「将軍、行動を開始」
ハルトは静かにうなずいた。
「進ませろ。
奴が選ぶ姿を見たい──忠義か、それとも今しがた背を向けた“愛”か」
風が唸り、氷の粒が舞う。
ついに、戦争が幕を開けた。
*
サヤカは窓辺に立ち、夫の姿が雪に消えていくのを見つめていた。
胸にかけた護符が、一瞬だけ光を放ち──
やがて、純白に沈んでいく。
「お願い、リュウスケ……」彼女はそっと囁いた。
「どうか、冬に消えた名前にならないで」
そしてその遥か彼方、
ハルトは静かに目を閉じていた。
吹雪は止むことなく降り続ける。
まるで神の時計が、時代の終焉を刻むかのように。
黄金の焔の王国は、雪の下に沈みつつあった。
そしてその雪の下で──
最後の、真に高潔な心もまた──眠りにつこうとしていた。
――つづく。
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