野心と恐怖
中央王国の街々には音楽が満ちていた。
富士守アヤカの歌声が、魔法通信の結晶を通じて至る所に響き渡っていた。
それは甘く、ほとんど神聖にさえ感じられる旋律だった。
だがその一音一音の奥には、秘められた意図があった──
心を支配するという意図が。
「王国は…多くの苦しみを乗り越えてきました。
でも、希望はまだ生きている。
さあ、一緒に歌いましょう!」
民衆は手を掲げ、涙を流しながらその声に応えた。
兵士たちは理由もなく泣き、
貴族たちでさえ、自邸で得体の知れぬ高揚感に包まれていた。
アヤカは、自らの宮殿で満足げに微笑んでいた。
薄紅のカーテン、金色の鏡に囲まれた部屋の中央、
魔法の鏡には“ファン”たちの姿が映っていた。
村人、兵士、聖職者たちが、彼女の名を叫び続けていた。
「完璧ね…」彼女は囁いた。
「信仰…名声…そして今、権力。
日本で失ったすべて…ここで手に入れるわ」
彼女の脳裏に過去がよぎる。
屈辱的なオーディション、プロデューサーの冷たい目、
ネットで浴びた嘲笑の言葉たち。
「地味すぎる」「輝きがない」「顔も魂も変えろ」
そんな日々の中で踏みにじられた自尊心。
でも今──すべての人間が彼女を崇拝していた。
それこそが、世界に与える“甘い罰”だった。
一方、遠く離れた屋敷では、
将軍・畠中リュウスケが暖炉の火を見つめていた。
四十代、黒髪に灰の混じる鋭い顔、
長年の戦で鍛えられた身体は、疲労と傷に覆われていた。
妻のサヤカが、震える手で茶を差し出した。
「リュウスケ…また汗をかいてるわ。大丈夫…?」
彼はすぐには答えなかった。
深い隈が目の下に浮かび、制服は乱れ、
その目はただ炎の奥を見つめていた。
「レイナが…落ちたらしい」彼は低く呟いた。
「倒したのは──ハルトとかいう男だと」
サヤカは俯いた。
「…それで、あなたはどうするの?」
将軍は拳を握りしめた。
「何ができる?
俺は、無名の新兵の頃からこの国に仕えてきた。
仲間を、部下を失いながら…この王冠のために戦ってきた。
今ここで倒れたら──
俺の人生のすべてが、意味を失う」
彼は立ち上がり、窓の外を見た。
そこでは、アヤカの歌声に合わせて王宮の灯りが揺れていた。
「…あの女は、国が燃える中で歌っている」
彼は吐き捨てた。
「国は…歌じゃ守れない。血で守るんだ」
サヤカはその手を握りしめる。
「それでも…
お願い、あなたは…自分を失わないで。
どうか…人間らしさを失わないで」
リュウスケは疲れ切った目で彼女を見つめた。
「人間らしさ…か…」
「それならとっくに──
死んだ仲間たちと一緒に埋めたよ」
その頃、北の山岳地帯では、
相沢ハルトがアウレリアとカオリと共に、空を見上げていた。
地面は微かに震え、レイナが遺した魔力の痕跡が空気を蝕んでいた。
「王国の崩壊は、思ったより早いわね」アウレリアが言った。
「各地が、勝手に統治を始めてる」
ハルトは目を閉じ、体内の“ガチャの流れ”を感じ取っていた。
「つまり…残った英雄たちが姿を現し始めた。
そして──内戦は避けられない」
カオリが彼を見つめる。
「本当に…彼ら全員と戦うつもりなの?」
ハルトは静かに頷いた。
「それが、かつての世界を壊した元凶だから。
欲望、虚栄、名声、恐怖──
自分を守るために、人を壊す心」
彼は振り返り、マントに輝く金の紋章を見せながら言った。
「アヤカは“心”を支配する。
将軍は“力”を支配する。
そして俺は──“運命”を支配する」
王宮では、アヤカが跪く貴族たちの間を優雅に歩いていた。
その表情は喜びに満ちていた──新たに与えられた称号、
「救済の声」を楽しむかのように。
病に伏す国王は、彼女が差し出す勅令に、ただ無言で署名するだけだった。
「ご安心を、陛下」アヤカは柔らかく囁く。
「私の声が響く限り、誰もあなたを脅かせません」
だが、王が目を閉じたその瞬間──
彼女の微笑みは冷たいものへと変わった。
「そしてその声が止んだ時には…
この世界に残る“唯一の音”は──私だけになるのよ」
一方、自邸にて、畠中リュウスケは静かに剣を磨いていた。
刀身に映るのは、疲れきった自分の顔。
だが、その瞳に迷いはもうなかった。
「この国が滅びるというのなら…」
彼は低く呟いた。
「俺のルールのもとで滅ぼしてやる」
その声は火のように静かで、だが確かに燃えていた。
遠く離れた丘の上、相沢ハルトは夜の空を見つめていた。
三つの力。ひとつの運命。
それぞれが異なる形で王国の未来を握っている。
そして──
地平線の向こうには、古びた寺院の影が浮かび上がっていた。
すべてが始まった場所。
すべてが…終わる場所。
――つづく。




