虚無の鼓動
月のない未明、青の王国の大地が震えた。
寺院の鐘がひとりでに鳴り、運河の水面が震え、見張り塔にはひびが走った。
警備にあたっていた魔導士たちは北を見つめ、山々から紫の光が天へと伸びるのを目にした──古の封印が、再び息を吹き返していた。
王宮では、ツキシロ王妃が飛び起きた。
その音は、石でも雷でもなかった。
それは鼓動──深く、重く、真実を知る者にしか聞こえない音。
封じられた心臓の鼓動が、彼女の胸に罪のように響いた。
「そんなはずは…」彼女は髪を乱したまま身を起こし、囁いた。
封印は、あと百年は持つはずだった。
病に伏すアルブレヒト王は、毛布に包まれたまま、炎を見つめていた。
「知っていたのだな」──声は静かだった。
「封印が弱まっていたことを、知っていたのだ」
王妃は歯を食いしばった。
「言えなかったのです、陛下。
民は狂い、英雄たちは見捨てたでしょう」
「では今、何が残るというのか」王は咳き込みながら言った。
「偽りか? 操り人形か?
私は窓から炎を見た。お前にも、もう止められまい、王妃よ」
一瞬だけ、彼女は壊れそうなほど脆く、人間的だった。
「私は…止めてみせます」彼女は呟いた。
「たとえ自分が壊れようとも」
王は悲しげに彼女を見つめた。
「お前はとっくに壊れているさ、ずっと前にな」
街では、地鳴りが預言となった。
「宮殿の下に何かがいる」という噂が、巡回兵よりも速く広まった。
「太陽」を語る金のポスターの隣に、黒いインクで書かれた新たな貼り紙が現れた。
「彼が目覚める」
「英雄でも王でもない──眠る“それ”が」
商人たちは早々に店を閉め、寺院では応えぬ神々に祈り、兵士たちは口を潜めて呟いた。
──魔族は、実は消えてなどいなかったのではないか?
数百キロ離れた山中で、ハルトは目を開けた。
その鼓動を感じたのだ。
それは単なる魔力ではなかった──呼び声だった。
次元の狭間で蠢く、眠れる存在の。
「ついに…目覚めたか」彼は囁いた。
銀色の髪を光らせながら、アウレリアが彼を振り返った。
「この力、何なの? ハルト」
「世界の心臓だ」彼は答えた。「最初の英雄たちが封じたが、滅ぼしたわけじゃない」
「今、その反響が、王国の恐れと共鳴している」
カオリは真剣な眼差しで剣を握った。
「私たちはそれを…使うの?」
「いや」ハルトは穏やかに微笑んだ。「解き放つのさ。他のすべてが、それを制御できると信じている時に」
その夜、ツキシロ王妃はひとりで王宮の地下へ降りた。
ポータルを守る石の扉は震え、封印のルーンは黒い光を放っていた。
彼女は膝をつき、魔力をすり減らしながら封印を補強しようとした。
だが、それは川の流れを手で止めようとするような無謀だった。
氷がひび割れ、黒い蒸気が漏れ始める。
そして、あの声が再び響いた。
深く、古く、そして──どこか懐かしい声。
「お前が私を封じたのだ、王妃よ…だが私を忘れたことなどなかった」
「お前の魔力には、まだ私の痕が残っている」
「本気で、服従が救いになると思ったのか?」
彼女は後ずさり、震えた。
氷から現れたその影は、形を持たず、人の顔の輪郭をなぞるように揺れ動き、目は消えかけた炭のようだった。
「いやああっ!」王妃は魔法陣を展開し叫んだ。「戻るな、戻るな!」
だが床が崩れ、彼女は落ちていった。
その叫びの残響が、王宮全体に響いた。
そして──封印は砕けた。
山にて、ハルトはその爆発を感じ取った。
目の前の地図に、新たな緋色の点が灯った。
カオリとアウレリアは沈黙のままそれを見つめていた。
「均衡が…崩れたわね」アウレリアが言った。
ハルトは静かに目を閉じた。
「第二段階の始まりだ。
魔族に、英雄たちが隠してきたものを暴かせよう。
そして恐怖がすべてを飲み込んだ時──
最後に残るのは、ただひとつの光」
カオリは頭を垂れた。
「黄金の太陽──」
ハルトはうなずいた。
「夜明けは止まらない」
外では、風が灰と約束の匂いを運んでいた。
世界は、己の偽りから目覚めようとしていた。
――つづく。




