パピリアを狙う者達。現れた夜の兎
周囲は惨憺たる様相を見せている。人の逃げた跡には私物が散乱し、ガラスは割れ、床には幾つもの亀裂が走っている。1時間前とは光景がまるで異なっていた。
無線で連絡を試みるも、避難誘導をしている組からの返事だけで退魔士とは繋がらない。交戦中と見るべきか?
「外に出よう。会場を離れるのが一番だ」
一般客の中に混ざれば、パピリアの安全は保障されたと判断して良い。
奴等は一体何が狙いなんだ? パピリアを襲おうとしたのは、まさか歌唱を独占する為ではないだろう。徒党を組んで熱心な握手会に出て来たとは思えないし。
むっとした外気に触れる。数多くの人影は遥か遠く。避難としては順調。
あそこまで向かって引き返そう。混乱にならぬよう、大きな狼姿の真噛を人型に戻して送る。
「あるじ、何か、いる」
だが、行く手の夜陰に目が光っていた。赤い瞳。
小さな小動物が草地をひょこひょこと動く。そして、こちらへ近づいてきた。シルエットが明瞭になってくる。
それは、無害そうな兎の再来。
「あの時の兎? また戻ってきたのか」
白い体毛に黒の勾玉模様。監視カメラで見かけたあの個体と同じだ。
精霊獣のようだが、また迷い込んで来たのか。
「天朧さん! パピリア!」
虎に乗ってこちらにやって来たのはドレス少女。赤髪を乱したアリスが加わった。
護衛という意味では、丁度良い。日常的に荒魂との騒ぎを経験している彼女と中位の精霊獣であれば、多少の緊急事態は何とかなる。
「二人とも無事でよかったです」
「そっちこそ。彼女を避難している場所へ連れて行って欲しい」
「はい、分かりましたっ。でも一体この騒ぎは何事ですか?」
「後で説明しよう」
その機会があれば、の話だが。
「嗚呼、幾星霜」
横やりの言葉。古めかしい口調。
誰なのか、俺達の会話を挟んだ。
声の源は、視線の遥か低いところ。
「幾星霜、待ちわびただろうか」
言語を解した兎がこちらに歩み寄る。この精霊獣、ただの野良精霊獣ではない。
「やっと出逢えた。儂は、この日を夢見た……嗚呼、我が君」
兎は黒煙と共に人型の身体を起こす。
黒い着物を着た、赤目の童女は顕現した。老婆のような白髪の上には2本の兎の耳が伸びている。人型になれる上位以上の精霊獣だったのか。
「誰だ」
俺の言葉に耳を貸さない。
「えっ、何? どういうこと!?」
アリスの戸惑いにも目もくれない。
「とまれ」俺が前に立ちはだかると、兎耳を生やした少女は頭上を軽々と飛び越えた。
そのまま驚いて見上げるアリス達を飛び越え、後ろに控えていたパピリアの元に一瞬で距離を詰める。
「長かった……逢いたかったぞ……」
「い、一体貴女は……」
「すまぬ、すまぬのう……盲いた儂の目には、もうぬしの顔がハッキリ分からぬ。じゃが、この精霊力の脈打つ波長……嗚呼、嗚呼……」
戸惑うパピリアをよそに、兎童女はすがりついた。長い袖を腰に回し、抱擁する。
流したのは歓喜からと思わしき涙。しかし不気味な雰囲気を孕んでいる。
「ようやっと帰ってきた我が君よ。儂じゃ、夜兎じゃ。きっとぬしは覚えておるまいのう。じゃが、良い。再び巡り逢えたのなら……」
「何を言って……? や、やめてください」
振りほどこうにも、その正体不明の精霊獣は全く動じなかった。
「ちょっとそこの兎耳の娘、彼女嫌がってますよ!」
見かねてか、アリスは勇気を出して注意する。今までのように無視しているかと思ったが、今回は反応した。
耳は聞こえているらしく、夜兎を名乗る童女は首だけを動かす。
「彼女? 誰が嫌がっておると?」
「今貴女が抱き締めている人の事でしょ!? パピリアは知らないって言ってるんだから人違い──」
「我が君? ぬしはぬしで間違いないであろう? のう、我が君よ、みね逞しきぬしを間違える筈が──」
夜兎は彼女の身体をまさぐり始めた。蝶仮面の下の頬を撫で、肩の肌をなぞり、そして胸元に手を置いた。
「なん、じゃこれは」
「あの──痛っ!」
「何故ぬしにかような物がついておる?」
パピリアの胸に爪を立てた。わなないた兎童女の虚ろな瞳が揺れる。
「のう、何故おなごなのじゃ? 何故男でなくなっておるのじゃ? のう? のう、儂の知るぬしでなくなったのかえ? 見えぬ! 嗚呼見えぬ! ぬしはぬしであろ? 我が君! 我が君よ!」
狂気すら滲む問いかけに、パピリアは恐怖を覚えている。胸騒ぎがした。
「パピリアから離れろ!」
「虎土! お願い!」
真噛とアリスの虎が二人を引き離すべく接戦。すると、兎童女の顔が引きつった。
「邪魔じゃァ!」
袖から小柄な背とは不釣り合いな大きな獣の手が顔を出す。羽虫を払うように、精霊獣達を撃墜した。
真噛は防御してたたらを踏んで後退し、虎土はモロに受けて地を転がった。
「ごァ……ッ」
「虎土!?」
「あるじ、コイツ強い……!」
「邪魔はさせん……。ぬしらの相手など……」
人の手に戻った小さな手に、小石のような何かが握られていた。それは精霊石、召喚に使われる触媒だとすぐに気づく。
あろうことか、その手のひらから不穏な黒い靄が溢れた。瘴気だった。精霊石にたっぷりと含ませている。
火蜥蜴事件の時、校長室で重要証拠として置かれた時の精霊石と合致した。この精霊獣が作り出した物だったのか。
いや、瘴気を出すということは、この童女……
「荒魂か……!」
「牛頭、馬頭」
精霊石を放ると、その頭上で世界が割れた。空の景色の一部が、ガラス質に砕ける。
その破損した歪みは、紫色の奔流が踊りそこから影が2体こちらへ。
それは、召喚台を用いらずに精霊界から呼び出した瞬間だった。彼女は、もしやこうしてあの鬼達をこの会場に侵入させたのだろうか。
アリスの精霊獣はさておき、真噛すら簡単にあしらい、こんな芸当を行える彼女を見て確信する。
コイツは天上位クラス。荒魂としては初めて挑むレベルだと。
「こやつらを足止めせよ、鬼ども」




