踊る宇迦の掌の上。炙り出されたのは
すぐさま人型に戻った稲荷さんと葛葉は跪き頭を垂れる。
あの本殿に脚を踏み入れた時と同じように、心なしか雰囲気も引き締められた。まるでその場に本人が訪れているようである。
──顛末は把握している。面を上げよ。苦しうない、面を上げよ。
その平伏を行っていることすらも分かっていると言わんばかりに宇迦様が促し、稲荷さんは進言する。
「ウカ様、本殿におられながら事態を既に熟知されているのですか?」
──如何にも。近辺の近況であれば、いつでも、手に取るように。
恐らく、神視を用いた上での状況把握をしたのだろう。当人にとってはもはや息をするようなものなのかもしれない。
──それより、人の子。
「は、はい」
──クズハと思い出は取り戻せたか? 送り出した頃合いも、恰度であった筈。
その物言いはまるで絶好のタイミングを知っているみたいだった。未来でそうなることを彼は知っている。
いや、違う。頃合いを見計らった、ということはもしかして意図的に合わせたのか?
たとえば無数の未来を知っていれば、その中から望ましい道筋を選ぶように行動することが出来るだろう。
バタフライ効果、というやつである。何気ない結果とは全く無縁の行動でも、大きな影響を及ぼして未来が変わるという聞きかじりの理論を思い出す。
間一髪事故を回避出来たようなケースや、逆にその一瞬の不運が折り重なって悲劇に見舞われたり、それが一秒ズレていれば起こりえなかった偶然は現実でもよくある話だ。
実際俺が神楽の途中に立ち去る葛葉を追い掛けたのも、気付くことが出来た一瞬があったからだ。少しでもズレたのなら、俺はこうして葛葉と再会出来ていなかったかもしれない。
それどころか、此処で野犴が降されてはおらず、別の手段によってこっちが命を落としていたかもしれない。
溺死を免れたのも、記憶を思い出すことになったのも。そんな奇跡の積み重ねだ。
もしかするとそれらが宇迦様の導いた結果であったとしたら?
鈴狐とやり取りした、あの惚けた会話すらその時間に合わせる為の計算づくであったのなら?
想像しただけで、何かが全身に鳥肌を立たせる。
宇迦様が行ったのは『風が吹けば桶屋が儲かる』に際し、会話を通じて風を吹かせるようなものだ。
神なる獣と呼ばれる所以が、今になって痛感した。
──時にイナリよ……供えの飯がまだ届いていないようだが。
「あ、いえ、ウカ様、先刻召し上がりました筈です……」
このやり取りも、意図的なのかただの痴呆なのかも分からない……
「それよりウカ様、ヤカンに処罰を降す御許しを」
──早計だ。
「こやつは掟に背くだけでなく外道に走った。何をこれ以上一考する必要があるというのですか?」
──語り足りぬのだ。汝はヤカンが此処まで至った全てを存じているか?
宇迦様は今回の事態に擁護的な態度を示す。まだ、俺達の与り知らぬ何かがあるらしい。
しかし、野犴が人を殺めようとした事実は揺るぎない。そこにどんな事情があったとしても、俺が許してもそれで話は済まないだろう。
──ヤカン。述べるべき言葉は十分か? このまま黙殺を続けるか?
「貴方様を相手にこれ以上申し開きもないでしょう。人が悪いですなぁ、一部始終を知っていて何も仰らないなんて……煮るなり焼くなり好きにしてください」
茶狐は降ってくる思念から顔を伏せた。白旗をあげている。
──では、炙りだす。
「……はい?」
──宇迦が皆に見せよう。秘められた想いを。
その言葉を合図に、虚空から見えない落雷のように頭を真っ白にするような軽い衝撃が脳天に落ちてきた。
不快感のない神霊獣の思念が意識に駆け巡り、視界がセピアの景色へと勝手に塗り替える。
「……ッ!? よせ、やめろ。やめてくれ、やめ──」
喘ぐ野犴の声が遠のき、そして追憶が始まった。
※
鳥居が点在する『神命』の里。その外観から路地へと場面が転換し、一匹の小さな狐の姿が映った。耳と尻尾は焦げたように茶色。首元にはしめ縄。
訓練場には白の狐人と、大小様々の狐達が横一列に並んで向かい合うようにしていた。
──次はヤカン、お前だ。人型に化けてみろ。
──は、はい!
呼ばれた茶狐はおずおずと前に出る。
念じるような仕草を見せたあと、意を決した彼は飛び跳ねて一回転した。
どろん、という音と共に煙に包まれるという変化を起こす。
それから着地した時には、先程とは何ら変わりのない狐がその場に取り残されていた。
その様子に目頭を抑えた稲荷さんがため息を吐く。
──何十年も鍛錬していれば少しは変化も覚えるだろうに。どうしてこう、進歩がないのか……
どっと他の狐達からの笑いが起こった。既に人と遜色変わりなく変化していたり、狐人として二本足で立っている者と、唯一彼だけが何ら進歩が見えていない。
ただ野犴は俯き、その嘲笑の渦に堪え続けていた。
里の外れ、土手先の傾斜に場所を変え、野犴は座り込む。
はてしなく広がる森の山々を眺め、たそがれていた。その表情に憂いを帯びている。
──そこで何しているの? 仲間達と遊ばないの?
──リ、リンコ様……どうしてこちらに。
いつの間にかこちらを覗き込んでていた狐巫女を見上げ、茶狐は驚く。
──ちょっとお説教から逃亡中で。ところで君の名前は?
──恐れながら、あっしは野犴と申します。
──うん。よろしくねヤカン。ちょっと私も此処でサボらせてもらおっかな。
ニコリと彼女に笑い掛けられ、野犴はどぎまぎした様子で視線を逸らす。
それから傍らに腰掛け、鈴狐は彼が目をやっていた景色を展望した。
──なるほどぉ、確かに此処はいい景色だねぇ。ぼんやりするのに丁度良いや。
──あ、ありがとう、ございます。あっしが褒められるより何だか嬉しいです。
──そう? ヤカンは絶景探しが上手だよ。こういう何気ないものは、立ち止まらないと気付けないと思う。
直接褒められ、恐縮ですと彼は小柄な身体を更に縮こまらせる。
──でも、嫌なことでもあった? とても落ち込んでいたように見えていたけど。
──お恥ずかしながらあっしは、落ちこぼれなんです。今日も鍛錬で変化をしないとならなかったのですが上手くいかず、皆に笑われてしまって……
──それって恥ずかしくて笑われるようなこと、なのかなぁ。たまたま不得手な分野だっただけじゃん。
──しかし、周囲と比べて劣るというのはみっともなくて悪いことなんですよ。リンコ様には無縁のことでしょうから、理解に苦しまれるとは思いますが……
──ううん、そんなことない。私だってよく比べられるから。
逃げてきた説教というものがどんなものかを、野犴は悟ったように閉口する。
『神命』の候補として鈴狐と葛葉の姉妹は以前から競争を強いられていた。彼女はそれに辟易した態度を見せる。
──私には『神命』を継ぐに相応しい神視が現れなかった。それが扱えるクズハの方がいずれこの里を牽引する立場になる。だから、任せることにした。でもね、それは劣っているからというよりクズハが長に相応しいからだと私は思うの。自分を卑下して、良いことなんてないよ。
──リンコ様……
──あの子に跡継ぎを明け渡す代わりに、いつか外の世界をこの目で見てみたいんだ。旅とか楽しそう。でも、そういう話をしたらお父さんカンカンで。
──それはイナリ様もお怒りになられますよ。
──あははは。いいのいいの。
そんな注意の言葉にけらけらと狐巫女は笑った。全くばつが悪いと感じる意思は欠片もない。
──……しかし、もしそんな時が来ましたら、あっしも……
──え? なぁに?
──い、いえ、何でもありません。
勇気を出せずに、秘めた言葉をしまい込む。
そうして見上げた瞳には尊敬と憧れ、何より恋慕の念が映っていた。
そして年月は流れ、小さな茶狐は姿を変える。
目が覚めるような美青年の容姿に化けられるようになった彼は、仲間内の狐達から信頼と羨望の眼を集めるようになっていた。幾多の術も身に着け、一族の中では出生の身分が低くとも優秀さを周知させていく。
そこまで彼を立派にさせたのは、今や『神命』から去った狐巫女への想いがあった。
鈴狐が『神命』を出て数十年後、彼女が帰郷したという一報を耳に、彼はその場へと足を運ぶ。
しかし再会した狐巫女の表情は、とても消え入りそうで何処か薄幸めいていた。
──もしかして、ヤカン? 立派に、なったね。
──はい。お懐かしゅうございます。……如何なされたのですか?
──うん、ちょっとね。色々あったよ。
それから野犴は彼女の話を聞いた。契約者と出会い旅をしたこと、やむなく戦争に加勢したこと、そこでとても辛い経験があったこと、そして今回は事情あっての一時帰還であったことを。
──私と契約主している人はもうすぐ、絶望のまま人生を終わらせようとしている。だから約束したの、来世でも見守っていくことを。それでね、ウカ様に視て貰えないかとお願いしに来たんだ。ダメ元だったけど、許してくれたよ。そして生まれ変わることを教えてくれた。私はこの先、あの子を待つことにした。どれくらい長い月日が経とうとも。
──では、それまではこちらに……
首を左右に振る。
──今のあの子も、最後まで看取らないと。私が帰ってくることを待っているから。
──何故……そこまで人に拘られるのですか!? 我等とは寿命も違う。そのような途方もない心労を注がれる必要など何処にもないでしょうに! 以前おっしゃられた通り、貴女様は自由の身であらせられるのに、契約などというしがらみに縛られてしまっている。リンコ様ご自身が、幸せではありませんよ。
言って、彼は手を引いた。そして、長らくの想いも一緒に引き留めようと進言する。
──ヤカン、私はその時間が今まで生きていた中でも比較にならないくらい新鮮で輝いていて、全てを捧げたいと思っている。
手はすり抜ける。狐巫女は里から再び姿を消した。
──ちきしょ……ちきしょう……
野犴は人の顔を保つのを辞め、かつて一緒に並び座った土手に座り込む。
草を掴み、顔を影に落とし、涙の雨を零した。
──……あっしが、あっしが人間だったら……人間だったらなぁ……!
「やァめろォおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!」
※
喉を引き裂くような絶叫が俺達を現実に引き戻す。声の主である野犴がその場で寒さが堪えるように震え、頭を抱えて蹲っていた。
宇迦様が見せた過去、そして心の秘部を暴かれた彼の態度が、今回の凶行に至った理由を物語る。
──皆が知るべき過去であった。許せ、ヤカン。
投げ掛けられた思念に、彼は答えない。
鈴狐と契約した俺への嫉妬、あるいは逆恨み。『神命』の面目や階級意識なんて実際建前でしかないのが分かった。一人の漢として、譲れなかったと。
「莫迦者め……八つ当たりなど、虚しいだけであろう」
白き狐人はやるせない様子で呟く。今見た記憶の中で師事していた場面を考えるに、彼には教え子として思うところがあったのかもしれない。
「しかしウカ様、そのような事情があろうと、罪は罪。酌量の余地は──」
「う……ぐ…………うぅ……」
これで全ての問題が収束したかに思われた。しかし、異変は起きた。
稲荷さんの言葉は途切れ、呻く野犴に目を奪われる。
「……ヤカン?」
「ああ……ぁああ…………あぐぅぅ」
茶狐のそれが嗚咽ではなく、苦悶であることに気付いた。何やら苦しんでいた。
俺との戦闘によって深手を負っていたのかと思ったが、その様相から違うと判別することになる。
それは、目を疑う変化だった。遂には野犴の声も大きくなる。
「うぁああああ! ぐぁあああああああ!」
「おい、待て、それは、何だ?」
「嘘、でしょ? どうして……!」
彼の全身から噴き上がるものを見て、『神命』の狐達は騒然となった。
それは、まさに黒く禍々しい靄。そして此処にはあってはならない存在。瘴気だった。
それを放つということは、彼は今精霊獣ではなくなっていることを意味する。
──備えよ。炙り出したが故、じきに現れる。
「ガァぁああああああああああアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」
宇迦様の警告を契機にその身を仰け反らせた野犴は、これまで以上にドス黒い瘴気を発して周囲を闇へと埋め尽くす。
こちらにまで靄が届く直前、俺は葛葉を抱えて間一髪距離をとった。稲荷さんも後退する。
待避の最中に彼は信じ難い様子で叫んだ。
「『神命』の地で荒魂化だと!? ありえるのか!?」
そのまま巨大な闇の柱が立ち昇り、奥から二つの赤い光が灯し出される。




