あたし、異世界にさよならする。
「へえ。そういうことだったんだ?」
しばらく熊男にしがみついていると、あたしの頭上から声が降ってきた。
……しまったすっかり忘れてた。
あいつとセットでタローのことも忘れてた。
そういやあたし、アルフの美顔にみかんの汁ぶっかけたわ。でもって、その腕すり抜けて、ここまで落ちてきたんだった。
だって、熊男の体があったかくってさ。適度にふにふにしてるから、掴まり心地もよくってね?
うんまあ、その。はい。忘れてましたごめんなさい。
顔を引きつらせてあたしたちを見下ろす美形が約一名。更に上から、ぴょんこぴょんこ飛び降りてくるわんにゃん忍者が見えるが、まあ、タローのことは良いとして。
問題は、超絶イケメンど変態ダークエルフの方よね。
あ、ちょっと。こらそこの変態。あたしの半径十メートル以内には近寄らないでくれるかしらっ!?
なんせ、震えが止まらないものでね。
……ってのは、冗談でも何でもないわけで。
事実、あたしの体は正直で、がたがた震えが止まらなかった。
彼があたしに見せた趣向の一部は、少なくとも、あたしに受け入れられるものではなかったから。
熊男の体にしがみつくと、熊男にも、あたしの恐怖が伝わったらしい。そっと肩に手を当てて、熊男の影に隠れるように移動してくれる。
その熊男の姿には、臆病者の面影など一切ない。
むしろ、ちょっと、格好いいじゃないのと思えてしまう程には、表情も急に大人っぽく見えちゃうわけで。
がささささっ。
そうしてにらみ合っていると、ようやくタローがたどり着く。
アルフひとりに対して、あたし、熊男、タロー三人がかりで睨み付けると、流石に彼も争う気は起こさなかったらしい。
構えた剣を宙に消し、その代わりに腕を組む。
そうして目を細めたまま、彼は熊男に尋ねた。
「魔公子どの。私は、朱実をお嫁さんにするつもりなのですが」
「だめ。嫌がってる」
「私は彼女の友人に聞いてきたのですよ。彼女が、私のような者を求めていると」
あー……それもう黒歴史決定。十歳の少女のたわごと。忘れ去られるべき青春の一ページ。
お願いだから、あたしの理想は忘れてくれないかなあ。
てか、自分がその理想に当てはまってるなんて、アンタもなかなか自意識過剰ね?
「あのねえ! マリィに何を聞いたか知らないけど、あたしはっ」
「朱実は私がいいんだよね?」
アルフはあたしに視線を向けて、ふふふ、と不敵に笑っている。
でもちがう。
彼は確かに、富も権力も力もあって、それでいてイケメンっていう――条件だけ並べたらさ、理想通りの男だったけど、全然ちがった。
あたしは、そういう分かりやすいものに流されてただけ。
アルフが変態だと知らなくても、全然――いやまあ、その声とか顔にはちょっとドキドキはしたけど――それでもっ、本当の意味で惹かれはしなかった。
だって、あたしの本当の理想は、アルフみたいな人じゃなかったんだもん!
「嫌よ! あたしはっ! あたしの理想は、アンタなんかじゃないっ」
「へえ。でも、朱実の隣の方はどうなんだい。失礼を承知で申し上げれば、身分はあれど、名はわからない。魔力も使いこなせない。頼りなくてつまらない男では?」
「頼りなくなんかない! つまらなくなんてっ。全然っ。ないんだから!」
熊男の影に隠れながら、あたしはアルフを睨み付ける。
まだ、体はぶるぶる震えているけど、熊男にしがみついてたら大丈夫だもん。
横ではあたしの言葉に、熊男がびっくりしたような顔をしていた。
何よ。ちょっと可愛いじゃないのよ。
一方、アルフは面食らったような顔をした。
これで照れてるとか都合良く解釈されたら、あたしもう、泣くからね!
「アンタにはわかんないだろうけど! 熊男はっ! 熊男は、優しくて! かっこいいとこあるんだから!」
その言葉に、熊男はますますぎょっとする。あたしの顔を二度見してるけど、何よ。全部、ほんとなんだから。
「ふふっ……あはははは」
あたしの主張が届いたのか、アルフは腹を抱えて笑った。
何を仕掛けてくるわけでもない。ひいひい声をあげながら、ずいぶんなお嬢さんだと言葉を漏らす。
「なんだ。これじゃあ私が道化みたいじゃないか」
「実際、そうだと思うわよっ」
「正直だね。……マリュウシオンめ。間違った情報を寄越したな」
「いや、それは彼の情報がアップデートされてないだけで」
マリィの話を出されると弱い。あたしは自分の頭を搔いた。
つまりはあれか、アルフはあたしみたいな小さい子が好き。で、あたしもアルフみたいな人が好きだった。
それをわかっていたからこそ、マリィがマッチングさせようとした。
アルフもすっかり乗り気で、今日、パーティにやってきた。でも、あたしにその気はなかったわけで。
やっぱりあれだ。
完全に、マリィ采配ミスじゃないの。
ってことは、もれなく所長のあたしには、フォローする責任が発生する。
「……アルフ。だったらアンタ、ウチの結婚相談所に登録しときなさいよ。あたしはごめんだけど、多分アンタの好みに合って、相手もその気になるような子、いると思うわよ?」
あたしの事務所が扱ってるのって、この世界だけじゃないからね。
今回の件、どうやらマリィと鳥の差し金でしょ? ありがた迷惑万歳ってやつでしょ?
ってことはだ。尻ぬぐいもアイツらにやってもらって当然じゃない。
「あたしとか熊男と喧嘩するよりもさ、多分、もっと良い子探した方が、丸く収まると思うの」
だからどうか、見逃してくれないかしら。
都合が良いとも思えるけれども、熊男と喧嘩するってことは、もれなくこの魔王領と喧嘩するってことだもんね。ちょっと穏やかでないからね。
肩をすくめたあたしと、あたしを守るように立ち塞がる熊男。両者に視線を走らせて、アルフは苦笑いを浮かべる。
「ああ……本当に、とんだ茶番だった。さすがにこれ以上魔王の息子さまの怒りを買うのは御免こうむる。――仕方ない、今回は退いてあげるとするよ」
熊男にすり寄るあたしを見て、無理矢理連れ去ろうって気は起こさなかったらしい。
しかし、アルフの面目は丸つぶれ。苦笑いの奥に、しっかり別の者への殺意が見える。
「マリュウシオンには、後でしっかり文句を言わないとな」
「うん、それならあたしも手伝うわよ」
そう言ってにっこり笑うと、アルフもまた、困ったように頷いた。
そうしてアルフは背を向ける。用は済んだと言わんばかりに、あたしたちの前を後にしたのだった。
「……ふあ……助かった」
アルフの姿が見えなくなって、あたしはその場にへたり込む。
熊男も熊男で、アルフがいなくなるのを確認したかと思うと、急に枝の上にしゃがみ込んだ。
「熊男?」
「うっうっ」
いつもよりこざっぱりした衣装の、魔王城の魔公子さま。
黙って立ってたら、威厳すら感じる風貌になるはずなんだけどな。
今、あたしの目の前にいる彼は、以前とまったく変わらない。何とも頼りない表情を浮かべていた。
ようやく、彼にも恐怖がやって来たらしい。
枝の上でぶるぶる震えはじめては、あたしの体に掴まった。
でっかい図体に小さな心。それが妙に可愛くて、あたしは笑う。
「ふふふっ……あははははっ」
「? 朱実? 笑ってる?」
「あはは、だって! 熊男ったら、結局いつも通りなんだもん!」
「う……だって。ここ、高い……」
「ふふふふふっ。自分で登って来たんでしょ?」
「うっうっ。でも、朱実が」
「あははは」
ぱそぱしと、あたしは熊男の腕を叩いては声を上げる。
「わかった。わかったよ熊男。アンタ、もう、そのままで良いよ」
「え?」
「うん、そのままでいい」
そうしてあたしは、熊男の膝に、よじ登る。
熊男の優しい膝の上はあたしの特等席。あたしだけがわかってたら、それでいい。
タローが気を利かせて、ちょっと遠くに新しい実をとりに行く。
高いところは怖いかもだけど、熊男、もうちょっとだけ、あたしに付き合ってよね。
この世界の月は大きくて、おどろおどろしくはあるけれど、あたし、好きになれそうだから。
***
「さて。あたしに何か言うことあるよねえ?」
「……すみませんでした」
「すみませんでした」
「声がちぃーさいー!」
「「すみませんでしたっ」」
「はいよろしい」
あたしの前には頼りない優男マリュウシオン。そしてようやく顔を見せた鳥がいる。
鳥はなんだかげっそりしているのは見間違いではないらしい。ほっそりとやせてしまって、今、丸焼きにしても美味しくなさそうだ。
それもそのはず。
どうやらあの魔王の城。っていうか、ここの魔王様の力は本物らしくてね。鳥の力とちょうど反発しちゃうんだって。だからあの城の付近だと、鳥は思うように動けないらしい。
そのせいで、ちょっと離れたところにしか、異世界の扉も繋げられなかったんだって。
確かに、繋がった場所もとんでもない場所だったもんね。
そんなわけで、熊男と初めて出会った森までやって来ては、ようやく扉の位置を固定する。
異界の空気が合わないのか、鳥はずっと元気がないが、そんなの知ったことではない。
「まぁいいわ。先日のパーティで新規契約もたくさんとれたし。あとよろしくね、マリィ」
ばさばさと、契約書の束をマリィに渡すと、当然マリィの顔は真っ青になる。
「えっ。こ、こんなに!?」
「あたしに内緒で、勝手にマッチングしたのは誰よ?」
「そっ、それはっ、良かれと思って」
「迷惑!」
「そ、そんなあ!」
パーティの時は朱実ちゃんだって照れてたじゃん! と、手応えを感じていたらしい男の悲鳴が聞こえる。けれどもあたしは、マリィの耳を引っ張っては、全力で抗議した。
「アンタのせいで、大変だったんだから」
そして、あたしは傷だらけになっていた左手を見る。熊男のおかげか、この世界の空気のおかげか、傷は一日ですっかりふさがって、ピンク色が残っているくらい。
でも、あの時のことを思い出すと、まだ体が震えた。
「これで、ようやく帰れるわね」
長かった、とあたしは思う。改めて、向こうと繋がった扉を見つめて、大きく、大きく息を吐いた。
「朱実、行っちゃうの?」
さて帰ろうか。そう思ったとき、後ろから声をかけられて、あたしの心臓は飛び跳ねる。
振り返ると、まんまるおめめにいっぱい涙を溜めた熊男がいた。
「うん、でも――お仕事もあるし。また、遊びに来るから」
「いつ?」
「え? えーっと……その。道は繋がったんだから、熊男さえよければ、いつでも?」
「明日は? 明日の朝」
「あー……明日は、あたしも学校かな」
そういえば、あたしの世界はどうなっているのだろう。
突然娘が消えたとかで、大騒ぎになっている気がする。ていうか、絶対そう。
まるっと一ヶ月ほど行方不明で、ふらりと帰るにしてもどんな顔をすればいいのやら。親は絶対泣くだろうし、しばらくは向こうを離れられない気がしなくもない。
ニュースとかになってたら地獄よね。そもそも、なんて言い訳すればいいのやら。
人生十年。人間関係はそれなりに? 上手いことやって生きてきたつもりなのに。でもこれ、戻ったらあたし、超問題児じゃないの、どうしよう。
嫌な想像をして、あたしはつい無言になってしまった。
すると熊男はますます絶望的な顔になる。
「うっうっ」
ああもう、ちょっと。
その涙でぐしゃぐしゃな顔、何とかしなさい。こっちだって、帰りにくくなるでしょう。
「熊男。大丈夫だから。色々片付けたら、ちゃんと――」
「おねがい、朱実。ぼく、ちゃんとするから。恐がり、直すから」
「だからそれはもういいって」
「名前もわかるようにがんばるし、魔法も、使えるようになるから――」
あたしの言葉なんか聞いちゃいない。めそめそ泣きながら、熊男があたしを引き留める。
『また来るから』――彼はあたしの言葉を信じる勇気がないのだろう。
だから、ちょっと離れるだけで、こんなにも不安になっている。
「ぼく、頑張るから。――だから、だからずっと一緒にいて?」
「……っ」
あまりに真っ直ぐに懇願されて、あたしの心は大きく揺らいだ。
熊男の表情は切実で、涙ながらに訴えかけられる。でも、あたしはそのとき、彼の意味をとらえらえきれなかった。
「い、一緒に……それって」
熊男のことだから、一緒に遊ぶ友達とか、きっとそういった意味なんだろうと思う。
もちろん、それは、それでいいんだけどね。……いいんだけど、うん。ごめん、ちょっとダメージを受けている気がしないでもないわけで。
しどろもどろになっていると、熊男はあたしの手を取った。彼の手はとっても大きくて、あたしは両手を、彼の指に重ねる形になる。
後ろで見守ってる、マリィがくるりと背を向けた。
鳥も空気に体を溶かし、タローは遠くでみかんを食べている。
え? え? これは、もしかしてそういうこと?
みんながつい気を利かせちゃうような、内容――なのかなって。
あたしも、期待してしまうわけでして。
「ほんとはね。パーティで、言うつもりだった」
「えっと」
「ぼくの好きな子、選んで良かったんでしょ?」
「あ……」
なんて返事して良いかわからなくなった。
多分、今、あたし馬鹿みたいな顔してる。
えっと。それってつまり、あたしが、熊男に教えてあげたことで。
選ぶって言うのは、つまり。お嫁さんを、って意味でして。
つまりこれは。その。
「朱実?」
もはや理解できないわけがない。
ずっとずっと欲しかった言葉をくれて、嬉しくないはずがない。
でも、あたしは、自分の言葉を紡げなくて、かわりに熊男の指を引っ張った。
熊男は不安げな表情をして、あたしの顔をのぞき込む。しゃがみ込んで、目線を合わせてくれてようやく、あたしは一歩、前に出た。
熊男の頬をめがけて顔を寄せる。
勢いでちゅっと唇を落とすと、熊男はびっくりしたように、何度も何度も瞬いた。
「うん……まあ、そういうこと、だから」
「えっえっ」
「だからっ。ちゃんと戻って来るからっ。心配しないで待ってなさいって言ってるの!」
「うっうっ」
「――返事はっ!?」
「はいっ」
真っ赤になって頬を押さえた熊男は、そのままぺたんと尻餅をつく。
相変わらずの情けない姿。でっかい図体に小さい心。
あたしは、そんな熊男が嫌いじゃない。
「……がんばって。はやく大きくなるから。熊男ももうちょっと、待ってて」
お願い。って抱きつくと、そっと、あたしの体に腕を回してくれた。
うん、やっぱり、もうちょっと大きくならないと。
今のままだったら、熊男に抱きつきにくいもんね。
そうしてあたしははじめて願う。
早く大人になりたいなあって。




