悪魔は斯くささやく
※このお話に宗教を批判する意図はありません。
2001年 おふだを買った時のお話
上司である友人にいきなり言われたのだった。
「おふだを買ってきてあげるよ」
おふだ?おふだってなんだ。昔話で山姥に投げつけたあれか?もし大河や火の山を出せるのならぜひ1枚持っておきたいものだが、そんなことを友人に伝えたことがあっただろうか。まあ年末年始も近いしおふだを買うには良い時期だ。きっと伊勢神宮とか出雲大社とか太宰府天満宮にでも観光に行くのだろう。お土産ということか。
ところが友人は地元に帰るだけだという。しかもおふだ代の5000円は私が払うらしい。
え、それなんのお布施?
いらないよ、と断ると私以外の同僚は皆購入するのだと言ってきた。なんだと?同僚どもめ、5000円で円滑な職場環境を買いやがったな。だがいらないものはいらないのだ。その日から私と友人の攻防が始まったのだった。
「まあ、騙されたと思って買ってみな」
いや、騙されたと思ったら買わないから。
「お前のようなタイプは1度信じるとハマるんだよ」
なんだ、ハメようとしていたのか。
私の怒りは次第に同僚に向かい始めたのだった。お前らなんで買っちゃうんだよ。同僚は「べつに、、、」と言葉を濁すばかりだ。友人は言う。
「これだけ勧めても買わないのか、お前は自分の信念と友情とどっちをとるんだよ」
「信念だよ」
友人が絶句しているようだが、私の考える友人はおふだを売りつけたりしない。しかし私も大人だ、そこまでして職場の和を乱すのも気が引ける。私は「欲しくはないが」という前置きのもとおふだの購入を決めたのだった。
1年後の年末になると友人は「どうだ、この1年良いことはあったか?」と聞いてきた。そりゃ、1年もあれば良いことの1つや2つあるだろう。あったよ、と、例を1つ挙げると友人は勝ち誇ったように言ったのだった。
「ほら、おふだの力だ!」
いやいや、1年あれば良いことばかりではなく悪いことだってある。私がうけた災難を話し「だからおふだに力なんてないよ」と言うとやはり友人は言うのだった。
「いや、おふだを持っていたからその程度で済んだんだ!」
ああ、信じる力って素晴らしい。お札の力でないことには明白な理由があるのだが、もう何を言っても無駄なようだ。邪魔はしないからせめて一人でやってくれ。
ところが友人は新年に向けて古いおふだを回収し、新しいおふだを買ってきてやると言い出したのだった。え?なにそれ、エンドレスで続くの?同僚たちは次々と古いおふだを持ってきて、新しいおふだの代金を支払っている。おかしい、みんな持っているのか、もらった日に破いてゴミ箱に捨てたのは私だけなのか。
なんとかお札を買わずに済んだ年明け、帰省した私がくつろいでいると、突然友人から「遊びに行かないか」との誘いがあったのだった。日を決めて落ち合う。電車に乗って1時間、ついた先はとある新興宗教の本部施設だった。あれ?遊びって何?
その本部施設は広大な敷地に多くの屋敷が並んでいた。町だ。いったいどれだけの資金をつぎ込んだのだろう。
宗教などというものは、心の安寧を求めた年配者が信仰するイメージがあったが、その施設には10代後半から20代前半の若者たちがたくさんいたのだった。友人はそのすべてと顔見知りらしく、あいさつを交わしている。おそろしい。完全なるコミュニティがそこにはあった。
講堂に入ると、たくさんの信者を前にして講義が行われていた。講義を聞きながら友人が言う。なんでも不治といわれた親の病気がこの信仰によって治ったとの話だった。講義でも似たようなことを言っている。いや、ちょっと待て。信仰というのは正しいから行うもので、見返りを求めてやるものではないのではないか。信仰すれば願いが叶うのだという友人に私は言った。
「『我を崇めよ、さすれば望みを叶えよう』これって典型的な悪魔のセリフだよねぇ」
周りの信者がギロリと睨んできた。
それ以降、友人が私を勧誘してくることはなくなったのだった。




