この座席を譲りたい
2021年 電車に乗っていた時のお話
資格試験の受験で都会へ向かった帰り、妻と合流して家路についたのだった。
久しぶりの電車、行きはテキストを読むのに必死だったが帰りは気楽なものだ。妻と隣同士で座り、くつろいでいると、最初はガラガラだった席も次第に埋まっていき、気付けば数席が空くのみとなっていた。
これは席を譲るチャンスが訪れるのではないだろうか。
私は電車で席を譲るのが大好きだ。それはもう譲るための席を10席ほど確保しておきたいくらいに。そんなの最初から座らなければ良いじゃないか!と、人は言う。尤もだ。だが、年配者が座ろうとしている席に遠くから「ああ!あそこ空いてるよ~!座ろう座ろう!」などと、奥ゆかしさを全て産業廃棄物に捨ててしまったかのような者の声が聞こえるといたたまれなくなる。
だから私は譲れる席を確保するためにも座ることにしているのだった。
何しろ電車に乗ること自体まれな私だ、こんなチャンスはそうそうない。私がひそかな野望を秘めたまなざしを入口ドアに注いでいると、次の駅で乗り込んでくる人々の中に70代ほどの男性がいたのだった。
チャンス到来、しかし焦ってはいけない。
よくみれば、男性は年配者ではあるが、体格はよく疲れた感じもしない。背筋も伸びている。ダメだ、これでは席を譲ること自体失礼になりかねないではないか。しかも、まだ向かいに1席空いている。畜生、あの席さえ埋まっていれば声がかけられるものを。いや、埋まっていたとしても声をかけちゃいけないパターンだ。落ち着け、私。
ここまでの思考時間約0.4秒。
結局声はかけなかった。よく耐えたな、私。ところが次の駅で80歳は超えているであろうおばあさんが2人、乗り込んできたのだった。なんてチャンス!席は向かいに1席だけ空いている。あぶれた一人にはぜひ私の席に座ってもらいたいものだが、私が立てば隣に座る妻がさびしい思いをするかもしれない。私は妻に声をかける。
「譲ってもいい?」
「いいよ」
よしきた。私は目の前を通り過ぎようとするおばあさんズに、立ち上がりながら声をかけたのだった。
「座りませんか?」
だがなんということだ。私が声をかけると同時に、向かいにある空いている席の横に座っていた女性が、おばあさんズに席を譲るために立ち上がったのだった。なんだと?私は今まで電車で多くの席を譲ってきたが、こんなことは初めてだった。こちらが用意できる席は1つ、だが相手の席は並びの2つ。くっ、勝負にならないではないか。しかし勝手に妻の席もベットするなど許されないことだ。
せっかく立ち上がったのだ、ぜひ席を譲りたいものだが、だからといってここで「ぜひこちらへ!」などと頑張ってみても得るものは何もない。もちろん相手の女性も席を譲る気満々で立ち上がったのだ、言い返してくるに違いない。
女「いやこちらへ」
私「どうぞこちらへ」
女「いやこちらへ」
私「いやいやこちらへ」
もはや様式美だ。すると今まで隣で静観していた男が事情を察して席を立つだろう。
男「じゃあ、こちらへ」
私・女「どうぞどうぞ」
ここまでの思考時間約0.8秒。
何とかこのコント勝負に持ち込みたい。私はすでに席を譲ることなどどうでもよくなっていた。
見てみると女性はまだ若い。この有名なネタ自体知っているのだろうか。たとえ知っていたとして、見知らぬ男に突然コントを吹っ掛けられて乗ってきてくれるだろうか。これはアレだな!アイコンタクトが必要だ、ウインクして気付いてもらおう。しかし見知らぬ女性にウインクする夫を横にいる妻はどう思うだろうか。危ない危ない、離婚の危機を招くところだった。では何か暗号を練り込んだセリフを、、、ダメだ!何も思いつかねぇ!
ここまでの思考時間約1.3秒。
こうしておばあさんズは向かいの席に座り、私は一度上げた腰を元の席に戻すことになったのだった。私は一人、この女性にシンパシーを感じていた。健闘を称え合いたい、できればシャツの交換もしたい。とりあえずアイコンタクトでも、、、いけないいけない。
こうして私は席を譲る機会を失ったのだった。




