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それから四日の間、疾駆と休憩を繰り返して森の奥地へと進んでいった。A級やS級の魔物などに遭遇することもなく、拍子抜けするほど順調な行程だった。
そして、夕刻には最終的な目的地である第八十三安全地帯に辿り着く。
彼らはいつものように野営の支度を進めるが、その表情は硬い。この安全地帯の近くにヒュドラが潜んでいるかもしれない。S級討伐の任務が、いよいよ現実味を帯びてきていた。
「ノエル、どうですか」
到着してから一時間近く様子を探っていたノエルだが、ニケルの問いかけに首を振る。
(僕が調べられる範囲には、ヒュドラはいないよ)
私も精霊の声に耳を澄ませているが、その気配は感じない。目撃情報があってから一週間以上経っているため、移動してしまっているのかもしれない。
ニケルたちも同じように考えたようで、地図を取り出して開いた。
「しばらくは、此処を拠点にするしか無さそうですね。ヒュドラは岩辺を好むと言われていますが、この辺りで考えられるのは……」
「ここも気になるね」
おおよその地形が書かれた地図を指差しながら、彼らはヒュドラの潜伏していそうな場所を予測する。探索が進んでいないのか、地図上では第八十三安全地帯の辺りは空白が目立っていた。
安全地帯も、この近くにはない。ニケルの言うように、ここを拠点にしてヒュドラのいそうなところをしらみ潰しに探すしか方法は無さそうだった。
岩場でヒュドラと遭遇した場合にどう誘き寄せるか、作戦を確認していく彼らを後目に、私はひっそりとその場を離れた。精霊へ呼びかけて、ヒュドラの情報を集めてもらうためだ。ただ精霊の声に耳を傾けているよりも、より広範囲で具体的な情報を得ることができる。
「みんな、ヒュドラについて教えて欲しいの。ちょっと前にこの辺りにいたはずなんだけど」
(僕見たよ、あっちの大きな木のそばでね)(僕は大岩の方でみたけどなぁ)
この近くにヒュドラがいた事は確かなようだが、精霊が示した方向はばらばらだということが、ひとつの不安要素を浮上させた。ヒュドラは俊敏性は高いが、移動速度はそれほど早くないはずなのだ。最悪の場合は、複数体のヒュドラが潜んでいるかもしれない。
とにかく、ヒュドラの居場所を掴まないことには何も始まらない。
私は、彼らの会話に耳を傾け、時おり相槌を打ちながら精霊の声に意識を研ぎ澄ませた。私の元へ次から次へと届く精霊の声を頼りに、その居場所を辿っていく。
正直なところ、対象物までの距離や正確な位置を掴むには、ノエルの精霊魔法の方が優れていると言える。ただし、ノエルは半径5キロまでと言っていたので、距離的限界はある。また、巨大な障害物に阻まれてしまうと、それ以上先は分からなくなってしまうそうだ。
その一方で、精霊に語りかけて情報を集める私は、伝達に時間がかかるものの範囲に制限はない。だが、その目標の元へ向かうのには精霊の導きがいる。(こっちだよー)(こっちこっち!)という声を辿っていくのだ。ハヤテと空を飛べば容易いが、森の中を駆けるのは難しい。
昨日よりも静かな食事を終え、明け方の少し前に見張りをノエルと交代した頃、(見つけたよ!)(こっち!)という精霊の声が届いた。その声のした方に視線を向けるが、深い闇に覆われた森が不気味に揺れているだけだった。
その方向は、ニケルたちが目をつけていた岩地の反対側だ。地図が正しければ岩地ではなく大きな沼があるはずだが、ヒュドラがそこにいるのかは定かではない。正確な位置を掴むのを早々に諦め、しばらく精霊の声を集めれば、そのヒュドラの全体像が見えてきた。
(あいつ嫌だねー)(フェイやっちまえ!)(近づきたくないよ)と精霊が嫌悪感をあらわにしていることから、相当強い魔力の持ち主のようだが、こればかりは近づいてみないと分からない。
頭部の数は報告にあった通り四つあり、火を吐く頭が両端に二つ、その間に毒を吐く頭と鋭い牙を持つ頭があるという。
(炎を吐く二つの頭、毒と鋭い牙……炎と、毒と、牙)
ふと引っ掛かりを覚えた私は、恐る恐るその言葉を噛みしめた。繰り返し、繰り返し唱えるうちに、脳裏に浮かぶ情景が鮮明になっていくのが分かった。
撒き散らされた毒を含む吐息によって腐敗した草木、両端から放たれる威嚇の炎。赤黒い液体を滴らせる、幾百もの刃。
真ん中の頭の上には、銀色の剣が飾り物のように突き立てられている。その鈍い輝きを見ていると、無性に悲しくなるのはなぜだろう。いや、理由は分かっていた。
私は、その剣が誰のものか、知っているのだから……
突然に視界を覆った眩い光に、私は我にかえった。ハッとして辺りを見回せば、空はすでに明るんでいて、朝日が顔をのぞかせていた。
毛布に包まった彼らも、日の光を感じて身動ぎし始めた。
長い一日が、始まろうとしている。
彼らは剣を腰に佩き、装備に異常がないかを繰り返し確かめた。だが、その表情は昨日にも増して緊張感に溢れており、誰も口を開かない。おそらく、ヒュドラの居場所が見つかっていないのだろう。ノエルは、朝起きてからずっと探査を続けているが、その顔は険しい。
私は意を決し、地面に蹲る彼の元へ向かった。
「ノエル、あの方向に探査の風を伸ばせますか?」
私が指したのは、やはり地図上で沼がある方向だった。朝になっても、ヒュドラの気配は変わらない。ノエルは探査の対象を岩地に集中させているようだったので、見つかるはずがなかった。
(わかった、沼地のある方だね)
ノエルは理由を尋ねることもなく、あっさりと承諾して体の方向を変えた。
目を瞑って瞑想しているようにしか見えないが、その瞼の奥には遥か遠くの景色が映っているのだろう。
ピクリとノエルが肩を震わせたとき、ヒュドラを見つけたのだと確信する。瞼がゆるりと開かれ、私を見上げる彼は驚愕に染まっていた。(どうして分かったの?)と顔に書いてあったが、彼は追求をしなかった。
ノエルは、馬の調子を確認して今にも安全地帯を飛び出して行かんばかりの彼らを、慌てて呼び止める。
(みんな、ちょっと待って!)
すでに鎧に足をかけていた彼らは、顔だけをノエルに向けた。
(ヒュドラを見つけたんだ!でもそっちじゃない)
「それは確かですか?」
ニケルは、当初に目をつけていた岩場の方角を気にしながら、再度問いかける。ノエルがそれに力強く頷くと、他の三人は安堵の息を吐いた。これで、ヒュドラを求めて彷徨い歩く必要がなくなったわけだ。
(ヒュドラは開けた場所にいたよ。この沼地だと思う)
「沼地ですか……。足場が不安ですね」
「それなら、ニケルは後方に下がった方が良いんじゃねえか?接近はセオとフェイ、俺でなんとかするからよ」
ニケルが急いで取り出した地図を囲って、作戦を練り直していく。
沼地では、地面の状態によって戦局が左右される。踏ん張れないほど土壌が軟ければ、遠距離攻撃に集中するか魔物を誘き寄せなければならない。あらゆる場面を考慮するが、やはり決めるのは大まかな配置のみだった。
「それにしても、お手柄だな、ノエル!」
「沼地まで探査を伸ばしてるなんて、さすがだよ」
口々に褒められるノエルは、曖昧な笑みを浮かべる。たったそれだけで、視線が一斉に私へと集まった。
私は何気ない風を装って、颯爽とハヤテの背に跨る。
「さあ、行きましょう?」
私がそう言うと、やはり彼らは気まずそうに口を噤んだ。ニケルが諦めたように首を振れば、黙って馬へ騎乗するしかなかった。
ノエルを先頭に、二列の隊列を組んで疾走する後ろをついていく。操作は完全にハヤテに委ね、私は思索に耽った。
あの情景が、頭から離れない。
これから倒そうとしているヒュドラは、似ているのだ。三年前、その魔力に圧倒されて身動きが取れなくなった私を嘲笑い、ジャックの命を奪った、あの怪物に。
あの怪物かそうでないかを見分ける方法はある。向かって右側の真ん中の頭部に、銀色の剣が突き刺さっているのだ。
心の中に渦巻く蟠りが、私の不安を煽った。
そのヒュドラに、剣が埋まっているか。そう精霊に尋ねるだけで分かることだ。だが、あの時の身の毛がよだつ恐怖を忘れられない臆病な私は、こうやってヒュドラを前にして走り出すまで、そのことを頼めないでいた。
もし、あのヒュドラなら、彼らを戦わせる訳にはいかない。強力な魔力を持っていることは明らかで、それはつまり精霊魔法が効かないということになるのだから。
急がないと、彼らを死なせてしまう。私はまた、何もできないまま、大切な人を失ってしまう。
私にとって、ヒュドラに抗うよりも、そのほうが何倍も恐ろしく感じられた。
決断の時は、これ以上待ってくれなかった。
(あるよ!)(銀色の剣がささってるね)
精霊の知らせが届いたのは、直ぐのことだった。
違ってほしいと願っていたが、私は心のどこかで確信していた。だから、やはりそうか、と受け入れるのも容易かった。私は、これを一人で倒すのだ。
これから私が取る行動は、結果的に彼らを裏切るも同然かもしれない。当然、彼らは意味が分からないと不満に思うだろう。怒りを覚えるかもしれない。だが、どんな激情を向けられても、彼らが死ぬよりマシだと思える。
しかし、私はハッと顔を上げた。予想以上に、ヒュドラが目前に迫っていたからだ。
この辺りは木々の背が高く、地面も乾燥していて走りやすい。私が考えているよりも、移動速度が速かったのだ。
(前方千九百メートル、沼地の手前でヒュドラを捉えた!まだ僕たちには気がついていないよ)
ノエルから送られてきた声に、私は焦りを募らせた。このままでは、作戦が決行されてしまう。精霊魔法を使うことが出来ないと気が付いたときには、すでにヒュドラの掌中にある。それでは遅いのだ。
彼らに説明している時間はない。精霊たちに彼らの足を阻めてもらうとともに、私は空へ舞い上がろうとした。
だがその直後、私たちはヒュドラを甘く見ていたのだと思い知らされることになる。
まだヒュドラとは二キロ近く距離があるはずだった。
だが、皮膚の上を何かが這い回るような不快感が全身を駆け巡ったとき、私の心臓が嫌な音を立てる。
(なに……)
その正体を考える間もなく、一瞬の空気の揺らめきのあと、蹴散らされるように精霊たちの声が遠ざかっていくのが分かった。慌てふためく精霊たちの声が、警鐘のように頭に響き渡る。体から力が抜き取られていくような不快感に歯を食いしばり、必死にハヤテの背にしがみついて耐えた。
だが、そのすぐ後に私を襲ったのは、残酷なまでの静寂だった。
精霊の声が、まったく聞こえない。どれだけ耳を済ませても、彼らの気配を感じることができないのだ。
(みんな、お願い返事をして!)
いつもなら、(どうしたのー)と我先に集まってくるのに、私の呼びかけに応じる精霊はいない。
――私はいま、ひとりだ。
精霊たちに見捨てられたような絶望感に、私は、体が恐怖に支配されていくのを実感した。じわじわと指の先まで広がる震えに、体の自由が容赦なく奪われる。
前にも、同じ状況に陥ったことがあった。
爛々と光る縦長の瞳孔に射竦められ、体が自分のものではなくなってしまったかのように身動きが取れなくなった、あの瞬間。ヒュドラを前にして何もできなかったあの日の記憶が、私の脳裏にありありと甦った。
(フェイ、まずいぞ)
だが、いまの私はひとりではなかった。精霊が一目散に逃げてもなお、ハヤテはその場に止まっていたのだ。
ハヤテという唯一無二の相棒が、幾分かの冷静さを取り戻させた。
精霊たちは、私を取り残したわけではない。ただ、魔物の放った強力な魔力に逃げ惑っていただけなのだ。
これほど離れていても、威力の衰えることの無い魔力。ヒュドラ本体は、どれだけ凶悪な魔力を纏っていることだろう。
私たちが置かれた状況は、絶望以外のなんでもない。ハヤテが改善策ではなく、否定的な言葉を生んだことが、なによりの証拠だった。
彼らはもう精霊魔法が使えなくなったはずだ。最初に気が付いたのは、やはりノエルだった。
先頭にいたノエルは右手を上げ、その手を横に倒した。それは、撤退の合図だった。
いつものように声で伝えることなく合図を出したノエルに、予期せぬ事態が起こったのだと彼らは悟る。右に旋回するノエルに続き、一行はヒュドラに背を向けた。
賢明な判断をしたノエルに、私は心の中で称賛を贈る。
このまま、彼らに安全地帯で待機してもらえば、ヒュドラがどれだけ暴れようとも被害が及ぶことはない。あのヒュドラのことを彼らに伝える時間も作ることが出来る。これで、彼らとの間に生まれる軋轢が、少しはましになるだろう。
安全地帯を出たときとは打って変わって悲壮な雰囲気の漂う彼らの背中を眺めながら、私はどうやって説明しようかと思いを馳せた。




