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〈ヴ・ナロードナ号〉は斬新な潜水艦でした。人力潜水艦です。内部には二千馬力のエンジンの代わりにふたり分の自転車ペダルがあり、それを漕いでスクリューをまわします。まさにプロレタリアートの潜水艦です。ディーゼル機関など甘え、労働こそが原動力なのです。しかし、潜水艦の速度は潜って足ヒレで泳ぐわたしの速度よりも遅いです。鈍足潜水艦ですが、攻撃手段であるハサミの柄は油圧ポンプが仕込んであって、普通のハサミを使うくらいの力で使うことができます。その技術力の十分の一でいいから、推進力獲得にまわしてほしかったものです。
ハサミへの入れ込みぶりから、どうやらタチアナ女史は『攻撃は最大の防御なり』を信じているようです。機動戦略なんてものは口にしたくもない、兵士ひとりひとりが銃剣をつけた肉の弾丸となって突撃せよ、攻撃している限り、こちらは勝っているのだ、とは先の大戦の総司令官たちの言葉なのですが、これは一日に死者十万人を出す危険思想です。革命家よりも危ない思想ですが、タチアナ女史はそれを信じているのです。つまり、普通の革命家や司令官よりもはるかに危険な存在になったわけです。
じゃあ、ジーノとどっちが危険かと言われたら、ジーノのほうが危険です。革命家も司令官も別に大勢死なせることを目的としているわけではありません。どちらも革命の達成と戦争の勝利を目的としていて、大勢が撃ったり撃たれたりはただの過程に過ぎません。ジーノは違います。彼は人を撃つことを目的としていて、その過程で人が撃たれる、つまり目的と過程が完全に一致した極めて珍しいイデオロギーの持ち主なのです。
さて、タチアナ女史の危険思想と前進的潜水艦〈ヴ・ナロードナ号〉の欠点をあげつらうことはそろそろやめましょう。そもそもわたしは現在、ペンドラゴンの研究所での探索メンバーを募集している身なのです。潜水技術を持たないタチアナ女史もこれで研究所まで行くことができるようになったのですから、革命のことは知りませんが、ボビー・ハケットのレコードへは間違いなく一歩前進です。それにガラスのドームから見る水没世界というのは、いつもの呼吸マスクのゴーグルから見る水没世界とは違って見えます。藻とソフトコーラルが絡み合った商店、傾いた看板、壊れた自動車、油みたいにてらてらした魚、威嚇するカニのハサミ、ガラクタが埋まった泥、むき出しになった肋骨のあいだに何本も銛が立っているサメの死骸、気迫のないタコの墨。前言撤回です。いつもと変わりありません。
大学地区まで行くのは骨が折れそうですが、わたしはこのペダル付き水中棺桶――ごほん、もとい前進的プロレタリアート潜水艦に乗る前、例の研究所のことをチラシの裏に書きなぐって知らせてあります。タチアナ女史も革命を行うためには武器はいくらあってもいいと思っているので、快く研究所探索を引き受けてくれました。わたしは入り口が先日の以外にいくつかあるのではないかと思っていて、そのうちひとつ、沈没前は消防署の分署だった建物があった場所がくさいと睨んでいます。その建物の真ん中は半径十メートルの大きさで陥没していて、ちょっと見てみると、旋盤とモーターベルトが瓦礫のあいだにありました。それにレーズンの自動販売機。地下に工場――ペンドラゴン研究所があったのでしょう。
さて、ありました。イルミニウスの礼拝堂の入り口から三百メートルと離れていません。消防分署は前見たときよりも崩れていて、外見はきちんとしているものの中身は空っぽという、軽薄な色男みたいになっていました。しかも、その足元には高さ五十メートルの水柱をぶち上げるだけの弾薬が存在するかもしれないことをまったく知らず、女の子にちやほやされることだけを生きがいにする、そんなような建物です。それはそれで幸せな人生でしょう。もし、複数の女の子と交際し、それが一度に発覚したら、それこそペンドラゴン・アームズの出番です。武器商人はどちらの陣営にも銃を売れて、一人前です。女の子たちにピストル、色男にマシンガンを売れば、数のバランスがとれるのではないでしょうか?
かつては真っ赤だったであろう消防署の外壁を浮上してかわし、そして、大穴の上で泡を噴きながら浮力を小さくし、穴へと潜っていきます。穴の側壁には水道管と配線に絡まって宙刷りの消防車、一族単位で棲んでいるウツボの巣の玄関がたくさん、ゆらめく〈防火週間〉のペナントが悪魔の舌みたいに垂れ下がり、底にて潜水艦が防水映写機にぶつかり、アルコール摂取による酩酊状態でフライス加工をすることを禁止するカートゥーン映像が流れました。酔っぱらった三頭身の工員が頭から旋盤に突っ込んで、一と二分の一頭身に削られています。
「同志ギフトレス。これが例の研究所か。よし。前進!」
ふたり乗り自転車のペダルをこいで革命的前進を開始します。横穴は大きなもので何かの爆発で開いたのではないかと推察できます。それが消防署の地盤沈下をもたらして、救急インフラへの打撃を与えたわけです。損害賠償ものですが、水没と同時に発生したようで、しかも生存者もいなかったわけですから、起訴の期限はとっくに過ぎていることでしょう。穴には消防車のボンネットや防火コートなど赤いものがたくさん沈んだので、赤く擬態したヒラメがたくさん棲んでいます。
さて、研究所ですが、大きな水面が見えたので浮上すると、またしても大きなホールに到着しました。二階の回廊がある、ちょっとした商店街です。研究所にこのような店をつけるところを見ると、ペンドラゴンは地上を頼らずに生きていくことを本気で覚悟していたようです。ただ、予測した地上の脅威は水没ではなく、横領資金を取り返そうとする出資者の弁護士たちでしょう。
商業ホールには弁護士事務所以外のあらゆる商店があるようでした。クリーニング店や煙草屋、ペイストリー・ショップ、どれも熊が蜜目当てに手を突っ込んだ蜂の巣みたいにぐちゃぐちゃに略奪されています。唯一、略奪をまぬがれたのは、何の冗談か銃砲店でした。キラキラした紙で飾ったショー・ウィンドウには銃の手入れ用のグリース缶、ピストルを機関銃に変える小さな後付け部品、用途不明のバネの贈答用セットなどが並んでいて、その背景には家父長的スマイルを浮かべたフィリップ・ペンドラゴン氏の型紙が抱きつく寸前みたいに大きく腕を広げていました。
わたしもタチアナ女史もペンドラゴン氏を見るのは初めてです。わたしは勝手に真ん丸とした顔を想像していましたが、極めて写実的に描かれた型紙のペンドラゴン氏は頬がくぼんでいて、目は発育不良の金魚みたいに大きく飛び出し、口は髭を巻き込みそうなくらい小さくすぼめてあります。薄い髪は黒く、何かの油でまっすぐ後ろへ撫でつけてあるのですが、売り物のグリース缶にキリンみたいな色の字で『ペンドラゴン氏も愛用』と書いてあります。まさか、グリースを頭に塗ったんじゃないでしょうね?
銃砲店に入るとシステムが分かってきました。この銃砲店は銃を一丁も販売せず、銃にまつわる付属品のみを取り扱っていたのです。なかなかの商才ですが、手に銃を寄生させたいまもその商才が生きているのかは微妙です。銃に興味のない人にはさっぱり用途が分からない商品の棚を通り過ぎると、カウンターの裏に開きっぱなしの扉があり、ボール紙の箱だらけの廊下につながっていました。壁には〈整理整頓〉とあり、署名のかわりに弾痕があります。その署名から一番近い扉はレコード販売店につながっていました。残念ながら売っているのは歌謡曲とクラシックだけです。ボビー・ハケットはありません。もうひとつ、部屋の角を占領したコーナーがあり、それが〈ペンドラゴン語録〉なるものでした。レコードの録音技術が今よりもずっと劣っていたころ、ペンドラゴン氏は自身の考えや哲学をレコードに残して、支持者を増やそうとしたようです。会社から結構なお金を抜き、弁護士に追われる人にとって、自分を神のように崇め、弁護士の頭に七発ぶち込んでくれるような支持者は絶対に必要です。語録コーナーのレコードはきれいになくなっていましたが、売り場には五歳児くらいの大きさのペンドラゴン氏の人形があり、その人形が手にしている蓄音機に〈ペンドラゴン語録 その五十六)がセットされていました。クランクをまわして、きいてみると、レコードがブツブツと小さな破裂音を出した後にしゃがれた声がきこえてきました。
『誰もが発明者になりたがる。誰もがペンドラゴンになりたがる。だが、誰もペンドラゴンになることはできない。ペンドラゴンとは個人ではなく、大きな流れなのだ。その流れのなかにはまだ見ぬ霊感が泳いでいる。このわたしの手で取り上げられるのを待っているのだ』
大した自信家ですが、最後は才能の枯渇を嘆いて、自分の頭を自身の999個目のパテントで吹き飛ばす決定をしたわけです。この語録を録音したときはそんな最期、考えもしなかったことでしょう。
また廊下に戻って、さらに奥へ歩きながら、タチアナ女史はちびた鉛筆を手に、革命的スローガンをレコードにして販売することの長所と短所を手帳に書き込んでいて、そのページの最後には『革命歌!』と書いてアンダーラインを二本引いて、ついでに二重丸をつけました。それからタチアナ女史は『ゆけ、同胞よ、声高く』とか『打ち破るは鉄の意志』とか、あるいはもっとポップに『がんばれ、労働者たん!』とつぶやき始めました。そして、革命的思想とその途上の苦難を効率よく大衆に知らせるにはどんな歌がいいか、同志ギフトレスの意見をききたいときたのですが、わたしは人前で歌うことなど絶対に考えられませんから、どうこたえていいものか分かりません。そのあいだも『ブルジョワ尻を蹴り上げろ!』とか『頭突きは最後にとっておけ』とか革命的歌詞は暴力へと偏重していきます。銃という武器を生むための秘密研究所のなかでは歌もまた武器としての性格を帯びんとするのですが、善良な潜水士は例外であり、その優しい心は決して暴力に染まることはないのです。そこでわたしはいつもの、マスクの前で人差し指を交差させて発言の意志がないことを知らせました。するとタチアナ女史は「そうか、やはりハサミか!」と勘違いして、手帳に一度に五人の人間の首を切り落とせる巨大ハサミの設計図を殴り書きし始めました。
廊下は狭く板材の腰壁と花柄の壁紙、そして、様々な大きさの銃を入れるための箱(薄くてビロードの内張をしたものでみな空っぽでした)が積まれて、通行の邪魔になります。角を曲がると、嫌がらせみたいに葉巻の煙が立ち込めていて、行き止まりにドアがあります。葉巻の煙の発生源はこのドアの向こうのようです。人間がもうちょっとまともなら、ドアの向こうにいるのは愛煙家の集いになりますが、ここは利き腕を銃にくれてやった異常者たちの国ですから、ドアひとつ開けるのにもそれなりの覚悟が必要です。ただ、この煙には硝石のつんとくるにおいがないので、いわゆるガンスモークではないはずです。
――と、わたしはいろいろ考えますが、革命の女傑タチアナ女史はそんなこと一向にかまいません。
「たのもーっ!」
ドアを威勢よく開けてしまいます。
そこは社交クラブのようでした。田舎のお屋敷風のアイテム――暖炉、壁で交差した猟銃、「ダラー・プリンセス」をかけ続ける蓄音機、立ち上がった熊の剥製など――数人の、技師風のつなぎを着たマン・ガンたちが泥酔してソファに腰かけています。誰も彼もが意識をウィスキーに浸しているらしく、溶けたチョコレートを頭からかけてやれば人間ウィスキーボンボンの出来上がりです。しかも、しゃべるウィスキーボンボンです。
「やってねえ。やってねえ。おれはやってねえ。やってねえんだよお」
かろうじて聞き取れたのはオーバーオールの赤ら顔をした肥満漢の繰り言だけで、それも言葉として分かったけれど、いったい何を、誰に訴追されているのかが不明です。他の言葉は髭を噛んでいるようなンゴンゴというどもりのようなもので、彼らのすることと言えば、酒を出すカウンターに突っ伏すか、熊の剥製の下に潜り込もうとしているかのどれかです。
「ここが正念場だ」と、タチアナ女史。「この堕落したものたちを鋼鉄のごときプロレタリアートに蘇らせるかどうかに革命の成否がかかっている」
そう言って、タチアナ女史はひらりとテーブルに飛び乗りました。彼女が高いところへ上るのはきまって演説をするときです。
「労働者諸君!」
タチアナ女史は割といろいろなものに革命の成否をかける人です。家具の修理、靴紐をきちんと結べるか否か、鱒のムニエルの出来栄え。彼女にとって革命をチップにして賭けをするのは日常生活の一部なのです。じゃあ、賭けの結果はというと、タチアナ女史は家具の修理についてはわたしが演説が得意なのと同じくらい得意です。蝶ネクタイを結ぶ習性のある人だけが靴紐のちょうちょ結びをきれいに結べます。鱒のムニエルについては、そもそも新鮮な岩塩バターが手に入らないので、勝負以前の問題です。――が、もし、バターを無料配布できれば、大衆の心をつかみ革命は成功するでしょう。
彼女の演説は飲んだくれることをやめて、工作機械と向き合い、誰もがその技量をもってして生産に貢献することが重要だと言っています。至極まともな演説ですが、彼らはもうまともではありません。ワインレッドのビロードの椅子に深く沈みこんでいる、爪楊枝みたいに痩せたマン・ガンがタチアナ女史に「脱いだら十ドルやる」と言っています。不安はありません。わたしは彼女がA・P・ヒル通りのならずものたちに、もっと破廉恥なことを言われても、淡々と演説を続けていったのを見たことがあります。
「おれはやってねえって言ってんだろぉ!」
罵声のすぐ後、あの撃鉄が上がる、カチン!という音がしました。わたしはあと何回、このカチン!をきかねばならないのでしょう? まあ、とにかくです。わたしは伏せて、弾丸命中のリスクを床と分け合うことにしました。かつてはふかふかしていただろう絨毯はところどころ剥げて黒ずみ、できの悪い煙草みたいにアルコールと吐瀉物と硝酸化合物によって着香されています。マン・ガンたちはリヴォルヴァーをろくに狙わず撃ちまくり、この部屋をかろうじて見られるものにしてくれていた家具装飾をバラバラにしていきます。鎖でつながった五つの弾丸が熱く燃えながら飛んでいき、脱いだら十ドル氏が椅子ごと後ろへひっくり返りました。かろうじて見える脱いだら十ドル氏の両足は痙攣していて、体があると思われる場所からはメラメラと火の手が上がります。恐ろしい弾丸です。わたしの真上を飛んでいったのですから、もしわたしがボケッと突っ立っていたら、あの燃える鉛の行列はわたしを内戦国家みたいにふたつに分断していたことでしょう。
平和を愛する善良な潜水士は我が身の分断を防ぐべく、安全な場所を求めて這いつくばりさまよいます。もちろん、わたしだってわかっています。殺戮と闘争に明け暮れた人類の数千年が、床にへばりついてさまようくらいで消えてなくなることはないことを。とはいえ、熊の剥製の下から生首が生えているのを見たときは狂気もここに極まれりです。
「しぃっ! こっちだ! はやく!」
よく見ると、その生首には体があるらしく、熊の股の下には秘密の地下道があったのです。生首氏がひょいと消えたので、自分も同じくらいひょいと消えるべく匍匐前進をしました。穴の縁まで来て、のぞき込むと真四角の竪穴に梯子がかかっていて、そう深くない穴の底に火のついた蝋燭が一本、立っています。すぐに梯子に飛びつき、うっかり蝋燭を踏んでしまったものの自転車兵用の懐中電灯をつけてみます。横道が見え、生首氏がいます。体はきちんとそろっています。体も半透明じゃありません。何より手が銃になっていないです。
「まいったな! まともな人間がまだ残っていたなんて! きみ、名前は? ん? マスクの前で指バッテン? まあ、いいや。とにかく逃げよう」
筆頭会話代行人もいない状況で名前をきかれるという危機を脱し、わたしは生首氏あらためデイヴィッド・アイアトン氏の後ろをついて歩きます。
「もうひとりの女性は大丈夫かな?」
そう言えば、タチアナ女史のことをすっかり忘れていました。我が身があまりにもかわいすぎて、つい。
秘密の地下道というのは這いつくばって、頭に蜘蛛の巣を引っかけながら前進するものだと思っていましたが、考えを改めなければいけません。この地下道はずっと広く、埃っぽいですが、蜘蛛はいません。天井は弧を描いた煉瓦で電灯を左右に向けると、鉄製の二段ベッドが見えます。ときどき足がガラスを踏み砕く音がすると、アイアトン氏が、
「注射器だよ。みんなの頭がおかしくなった直後、この地下倉庫は臨時の病院に使われたそうだ」
ふむ。
「まだ、正気なものは狂気に落ちる前に自分で自分の頭を撃った。狂気に落ちたものは、ごらんのとおり、ゴルフ場のないカントリークラブで飲んだくれている。横領資金でつくった銃工たちの楽園も地上同様、地獄を見たわけだ」
アイアトン氏はしばらくして、何かの関所みたいな鉄格子がはまったところで立ち止まりました。横には警備員のデスクがあって、大きなパンとブリオッシュの中間みたいなものを引き出しから取り出し、ひとつをわたしにくれました。
極限状態でお腹が空いたときに食べ物をくれる人は誰でも美男子に見えるものですが、それを差し引いても、このアイアトン氏は美男子でした。整えた髭、青い眼、絶妙な高さを極めた頬骨。体格はスポーツマンらしい、背にも骨にも恵まれていて、小さなつるはしと革製の背嚢を背負い、手と同化していない銃をホルスターに入れています。つまり、まともな人間ということです。彼は首から下げたカメラを見せて、
「僕の商売道具。ジャーナリストなんだ」
と、教えてくれました。アイアトン氏は地下にも地上と同じくらいいかれた世界があることを大々的に発表したくて、ここに来たのだと言います。しかし、どうやってでしょう? わたしが小首を傾げると、自家用の潜水艦を持っていると言いました。まだ自動車だって一家に一台とはいっていないのに、自家用潜水艦がもう販売され始めているとは。所得の差からは未知の世界が広がっています。
わたしはうなずくか首をふるだけしかしませんでしたので、ききませんでしたが、地上も水のなかも狂っている上に地中も狂っていることを知らせるのは何の使命でしょうか? もう、ここまで来たら、腹をくくって宇宙をめざせという隠れた激励なのかもしれません。




