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ボビー・ハケットの未発表レコードがかかっている以上、任務を放棄するという選択肢はありません。
問題はどのくらい援軍を要請すべきかということです。
わたしとロレンゾは二度ほど偵察目的で潜り、敵を知ることにしました。
あそこで見かける人間はみな手を銃と融合させていて、鉄砲付きの人間というよりは人間付きの鉄砲になっているということです。やはり、立派な化け物です。おそらく融合している銃はペンドラゴンMなんちゃらなのでしょう。いまのところ、一番見たくないもの――機関銃と融合したやつは未発見のままです。ただ、それ以外にいくつかのケースを見たのでざっとまとめてみます。
まず、ハンドガン・マン。手が拳銃と融合していて、もっともありふれたマン・ガンです。たいていは狂人ですが、泥酔するのに忙しく、こっちが仕掛けなければ撃ってこないものもいます。彼らは弾を撃ち尽くすと、左手で弾を込めなおします。ところが、なかには計画性のないものもいて、両手を銃にしてしまい、撃ち尽くしたらどうやって弾を込めるつもりなのかというささやかなクイズを提供してくれます。二度目の偵察のとき、この二丁拳銃に襲われましたが、あっさり弾を使い果たしました。そのマン・ガンは歯でくわえて弾を込めなおそうとしましたが、おたおたしているうちにロレンゾが両手を切り落とし、火のついたストーブに放り込みました。これなら最初の射撃をしのげばいいとは思いますが、あそこが銃開発の研究所であり、見かける化け物はみな技術をもった銃工であることは心にとめておかねばなりません。というのも、手がなくても弾を込められる機械が発明されていて、その機械を背負っておけば、二本の機械の腕が体の前におじゃまして、銃の弾を自動で込めてくれるのです。前に述べましたが、人間は敵とみなしたものに対して金属をぶち込むためなら、信じられないほどの創造力が発揮されるのです。それは人間をやめても続きます。
ショットガン・マン。人間の悪意は釘を細かく切って集めて詰め込んで弾としてぶっ放せば、一度により多くの金属を敵にぶち込めることに気づきました。しかも、傷がたくさんできるので摘出しきれない。同じ金属でもひと塊でぶち込むよりもずっといい。これは常人の悪意です。マン・ガンたち狂人の発展的悪意はバラバラに切った釘と一緒に強酸を込めておくことで傷をぐちゃぐちゃにただれさせるというものです。この最高傑作を胴体にぶちこんで即死させるのはもったいないということで、ショットガン・マンは足や腕を狙って撃ってきます。苦痛は死よりも辛く、そして愉快なのです。これは体感的なものですが、ショットガン・マンたちのほうがハンドガン・マンよりも何を言っているのか分かりません。一度目の再潜水のとき、どこかから「あどろもーん、あどろもーん」と謎の言葉が繰り返されました。どこにいても、この声が響いてくるのですが、見つからないのです。「あどろもーん」がショットガン・マンだと思ったのはときどきシャキンとショットガンの弾を込める音――ポンプする、というそうです――がきこえてきたからです。
ハンドガン・マンがふたり、「このクソはなんだよ?」「しらねーよ。誰かこいつの口に四五口径を一発ぶち込んでくれねえかな」と言っていたのをこっそりきいたので、あどろもーんはマン・ガンのあいだでも意味不明なようです。電話ボックス男あらため待ち針人間も、このショットガン・マンに分類されます。
まだ遭ったことはないものの存在はしているであろうマン・ガンとしては狙撃してくるライフル・マン、説明不要のマシンガン・マン、それにペンドラゴンは榴弾砲の設計もしたことがあるので、ホイツァー・マンもいることでしょう。
こうなると援軍が必要です。さて、どうしたものかと我が家でひとり考えました(まだ昼ですが、ロレンゾは本業に勤しんでいます)。ジーノはなるほど目には目を、銃には銃をで、そこに「相手の銃に命中させる高等テクニックはさすがにできないですよね?」と煽れば、素晴らしいパフォーマンスを見せてくれることでしょう。そして、倒れてもはや抵抗しないマン・ガンの体に笑いながら何発か撃ち込み、蹴飛ばし、撃ちこみ……ジーノを頼るのは最後の手段でいいでしょう。
ジッキンゲン卿とカムイは白兵戦に特化していますから、この戦いには不利なように見えますが、彼らは弾を跳ね返しますので、問題はない気がします。ただ、どちらも声が大きすぎます。大きな声は苦手です。それにふたりはより強い敵を求める傾向があり、そして、声が大きいわけです。声が大きい人は苦手ですが(大切なことなので何度も繰り返します)、それ以上に研究所じゅうのマン・ガンに居場所を知らせているようなものですから、気づいたら包囲されて、あわれ討ち死にという最後が考えられます。だから、大きな声は苦手です。苦手です。大きな声は苦手です。何度だって言いましょう。大・き・な・声・は・苦・手・で・す!
さて、エレンハイム嬢かタチアナ女史です。どちらも無難な選択肢です。ほぼ条件が同一の、ふたつの選択肢からどちらかを選ぶとき、コインを投げる人がいますが、安易に過ぎます。賢者は手づくりルーレットを使うものです。これまでの人生で迷ったとき、わたしを正しい道へと導いてくれたベニヤ板をベッドの下から取り出そうとしていると、
「同志ギフトレス。何をしているのだ?」
タチアナ女史が家に帰ってきました。わたしのルーレットのことを説明するのが億劫なので、それをまたベッドの下に戻し、何もない、ときどきベッドのそばで四つん這いになりたいのだと言わんばかりに肩をすくめます。
「まあ、問題がないのならば、思想的健康が保たれている証拠だ。それより同志ギフトレス。見てほしいものがある」
見てほしいものがある。よい言葉です。相手はそれがわたしにハッピーサプライズをもたらしてくれると信じて、こう言うわけです。そして、経験則から「見てほしいものがある」ではハッピーになれないことをわたしは知っています。喉笛をえぐられた死体や呪われた邪神像、警察署の押収品倉庫から消えた五キロのヘロイン。サプライズはもたらしますが、決して幸せにはなれないでしょう。
断りたいですが、タチアナ女史はわたしの服の裾をつかんで離してくれず、引きずられるようにして、連れていかれました。タチアナ女史にとって大事なものとは? そう悲観することもないかもしれません。革命的画家たちが小麦を収穫するときはトラクターではなくコンバインを使うのだと気づき、少女、小麦、コンバインの絵を描き始めたとすれば、タチアナ女史にとって、それは革命の前進です。わたしにとってはそれを見て、特にハッピーにはなれませんが、死体、呪い、証拠品よりはずっとマシです。
わたしを引っぱりながら、タチアナ女史は最近、力を入れている革命工作員の育成について話していました。工作員というと秘密の暗号や変装七つ道具を駆使するかっこいいスパイみたいにきこえますが、はやい話、ひっくり返した木箱に乗って、貧乏漁師たちにできない約束を吹聴したり、労働者たちをいじめる悪い工場のローラーに作業用の椅子を放り込んだりするならずものです。どれも警官に見つかったら警棒で殴られるくらいでは済まないのですが、チンピラゴロツキの水揚げ量はヘイクやクジラを押さえて、堂々一位のボトル・シティです。よって、工作員候補には事欠きません。
雨は止もうか続けようか迷っているようで、ときおり針よりも細い水が天から降りて誰かの眼鏡に小さな点をつけています。あちらを歩いている黒眼鏡の老人は目が見えません。ただ、要領がいいので誰かに手を引いてもらったりせず、杖もなしで歩けます。本人は目が見えていないことはバレていないつもりですが、このあたりに住む人の大半は彼の目が見えていないことを知っています。彼が歩いてくれば、道を譲るし、歩行者の命など南の島のインフレ紙幣よりも価値がないと思っている暴走ドライバーだって彼を見つければ一時停止をするのです。タチアナ女史の目指す革命もこのくらい温厚なものならいいのですが。
ブレッキンリッジの商店街を素通りし、大聖堂の広場へやってくると、今日も今日とて信徒たちが教父カインの説教をききに集まり、まるで親戚の叔母さんの遺産が手に入ったみたいに歓喜の涙を流しています。敬虔な信徒の数は着実に増えていて、もう大聖堂には入りきりません。タチアナ女史は宗教は人民をたぶらかす麻薬だと言っていて、革命が達成されたあかつきには大聖堂を干し肉倉庫にしてやると言っています。そうなると、前任教父を殺害して今も涼しい顔でいるカインとそのカインの熱狂的なファンたちを倒さなければいけません。それはもう革命というよりは内戦であり、ジーノが一ダース必要です。それについてはタチアナ女史も分かっていて、必要な銃を集めないといけないとパワー・オブ・ストッピング教会に足しげく通っているそうです。そして、宗教は麻薬なのです。
大聖堂広場から伸びる道のうち一番狭くてジメジメして、たむろしている人が山賊みたいに見える小路を選んで進みますと、垂れ下がった藻が汚らしい建物の前で止まります。看板には青い錆がこびりついて何の店かは分かりませんが、少なくとも革命的画廊ではないようです。なかには硝石のようなツンとくるにおいがしていて、店番はいません。棚も略奪でもされたみたいに空っぽで、水没のせいで商業がふるわないこの街でも、ここまできれいに空っぽな例はそうそう見ません。革命的空っぽというやつです。ショー・ウィンドウの反対側の壁にはテーブルと椅子がカフェみたいに並んでいて、その椅子の尽きるところに上縁が丸い扉がありました。なかなか重厚な鋲と錠前をつけていて、あとはライオンが鉄のリングをくわえたノッカーさえあれば完璧ですが、ノッカーはその輪郭を扉板に残して消えていました。わたしも何度かサルベージしたので分かりますが、あれは外して売れば、結構なお小遣いになるのです。
タチアナ女史のポケットにはいつ国王や大資本家に出くわしても大丈夫なように小さなピストルが入っていますが、そのポケットから大きなゴツゴツした鍵を取り出すと、扉を開きます。タチアナ女史は自転車伝令兵用の懐中電灯を首から下げて、真っ暗で、冷たい石の階段を下りていきます。タチアナ女史はわたしに見てほしいものがあると言っていましたが、この古風な下り階段から、その見てほしいものは地下牢に閉じ込められて発狂した貴人ではないかと推測しています。人間みな平等が革命のスローガンですから、狂った王侯貴族は彼女のイデオロギーの正当性を示すのかもしれません。しかし、狂人を見ることでわたしが喜ぶと思われるのは心外です。十セント払えば鎖でつないだ知的障碍者に石を投げ放題という道端ビジネスに、わたしは眉を顰めるタイプの人間なのです。牢屋に入れたウツボ男や蟹男を棒でつつくのだって、あまりいいものだとは思えないくらいです。
階段を降り切ると、真っ暗な、そして水がヒタヒタたたえられているらしい、小さな港みたいな部屋にたどり着きました。タチアナ女史は電気椅子のスイッチにつかう、大きなレバーを上げ、するとブウンという駆動音がして、部屋が明るくなりました。それは地底湖でした。どこまでも黒い闇が続いている地底湖、地上が水に沈んでいる現状において地底湖がまだ存在することは何かのメタファーかもしれませんが、そういったものを読み取れるほど、わたしは文学的素養に恵まれた人間ではありません。しかし、その小さな港に、小さな潜水艦がクレーンでぶら下げられているのを見たら、これがタチアナ女史が言っていた『見てほしいもの』だったのだなと分かるくらいの理性は持ち合わせているつもりです。
「これぞ革命潜水艦隊の先駆け、〈ヴ・ナロードナ号〉だ」
ふたり乗りの、小さな潜水艦で、まさに先駆けです。五十人乗りの潜水艦はまだ作れないけど、金持ちのヨットを撃沈するならこれでも足りるというのがタチアナ女史の言葉です。水に浸ってもドルはドル、この世界にはお金持ちのヨット遊びはまだ残っているのです。ただ、〈ヴ・ナロードナ号〉は例の大砲の砲身を搭載できなかったようです。ですので、それはカムイにくれてやり、そのかわり潜水艦にはジーノがアドバイスした丸いガラスドームに機関銃をつけた銃座をつけました。また前方にはアームがあり、巨大なハサミが取りつけられています。
ああ、そういうことですか。タチアナ女史はわたしがしゃべらないことの意志として、口の前で指を交差させてつくったバッテンをハサミと勘違いしたのです。このハサミは海藻を見苦しくない程度に切りそろえるために使うのではなく、缶切りみたいに金持ちのヨットの船底を無理やり切り開く、生まれついての殺し屋ハサミなのです。
「同志カムイから、きみは潜水艦を見るのが好きだときいた」
ああ、あの件ですか。一週間くらい前に水のなかで何に出くわしたらうれしいかをカムイにしつこくきかれたことがあり、うんざりしたわたしは黒板に『潜水艦』と書きました。確かにわたしは潜水艦が好きですが、それは沈没したサルベージし甲斐のある潜水艦であって、現役の潜水艦は好きではありません。ましてや巨大なハサミを有する潜水艦など論外です。
「まずは同志ジーノに乗ってもらおうと思っていたのだが、あいにく同志ジーノは午後二時までにある男の膝を撃たないといけないらしく、そこできみを招待したわけだ」
人類の進歩には多少の犠牲はつきものだとのたまう人でなしのうち、自ら犠牲を支払う用意があるものはどのくらいいるんでしょうか?




