表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ヘンリー・ギフトレスと沈みゆく市街  作者: 実茂 譲
ヘンリー・ギフトレスとペンドラゴンの財宝
97/111

97

 もし、完全に水没していたら、おそらく研究所にはパイク・パーチの成魚よりも大きな生き物はいないでしょう。しかし、こんなふうに空間が残されていたら(しかも、いくつかの通路が口を開けていたら)、魚以上のものに注意しなければいけない気がします。

 ロレンゾを引っぱり上げ、マスクを外すと、埃っぽいもののちゃんと吸える空気が肺を満たします。

 この部屋はいくつかの通路の交差点のようでした。ヒビが入っているものの艶やかな木材が壁の腰の高さまで張ってあり、床には絨毯。そして、トロッコ用のレールが通路の真ん中を走っています。それらのレールは器用に部屋の中心を外していて、そのロータリーの内部、交差点のど真ん中には銃弾で穴だらけにされた電話ボックスがあります。こんなものを見せられて、温かい歓迎を期待するほど、わたしは楽観主義者じゃありません。それにこの電話ボックスからは絨毯に黒いシミが引きずられたようについていて、それが、通路のひとつまでつながっています。チーズみたいに穴だらけにされてもまだ生きていたのでしょうか? これを追跡して、ペンドラゴンM1000はどこですか?とたずねるのもいいでしょう。電話ボックスにいたということは会話ができるということです。わたしはできません。筆頭会話代行人が行います。

 ただ、電話ボックスを見る限り、この銃撃には二丁の機関銃ないし十丁以上の自動ピストルの一斉射撃が絡んでいます。体に刺さった弾丸はゆうに百発を超えています。それでもなお、電話ボックスから体を引きずって動くものが果たして人間と言えるかどうか。

 ここは避けておきましょう。血の跡とは反対の通路を進むべきです。べきなのですが、ロレンゾはスタスタそっちのほうへ歩いていきます。

 まずいです。ロレンゾと一緒に行けば、この謎の電話ボックス男と遭遇することでしょう。危険度は高いです。

 しかし、では、ここでひとり残るのは? もっとまずいです。もし、他にも電話ボックス男みたいなものがいたら? 命の危険です。しかし、それ以上に危険なのは「よお、ラブについて、夜通し語り合おうぜ!」と言ってくる人間(あるいは人間をやめた化け物)です。筆頭会話代行人なしで、わたしはその二足歩行型の疫病にどれほど耐えられるでしょうか?

 と、いうわけで、ロレンゾについていきます。リスク分析の結果、これが一番安全なのです。

 まだ、トロッコのロータリーと通路しか見ていませんが、どうやらこの秘密の研究所は地震や大火災、巨大隕石の落下などが地上の文明をさっぱり吹っ飛ばしても、衣食住の心配なく銃を作れるよう設計してあるようです。地上文明をさっぱり吹っ飛ばす大災害には水没も含まれているのでしょう。廊下にはスナック菓子やレーズンの自動販売機があり、あらゆる病気や怪我に使用できるファースト・エイド・キットをもらえる機械がありました。この灯台みたいな形をした機械はわたしたちを苦しめている病気や怪我のボタンを押せば、その治療に必要なものがもらえるのです。どれどれとボタンを見てみると、ボタンは〈憂鬱病〉と〈貫通銃傷〉のふたつしかありません。赤痢やコレラ、片頭痛、帯状疱疹、頭蓋骨陥没に苦しむものはこの時点で見捨てられます。試しに憂鬱病のボタンを押すと、取り出し口にウィスキーの小瓶が落ちてきました。貫通銃傷のボタンを押すとガーゼにテープをつけたものが二枚落ちてきました。貫通ですので、入り口と出口をこれを貼れというわけです。疾病に対する極度の軽視はわたしの気持ちを憂鬱にしますが、ウィスキーは飲みません。潜水時に飲酒は厳禁です。

 いくつかの十字路や分かれ道を無視して、血のようなものの跡を追います。ロレンゾは曲がり角や無造作に置かれたソファーを見つけると、索敵を行います。善良な潜水士には分かりませんが、半分顔を隠して凛とした表情のロレンゾがナイフを逆手持ちにして、殺気を抑えて(殺気が嘘っぱちであることは先日明らかになりましたが)影のように走り、敵がいたら頸、腹部、太ももの裏を二秒で切り裂かんとするのはナイフ屋たちにとって、憧れなのでしょう。善良な潜水士には分かりませんが。

 しかし、この技のおかげで曲がり角を安全に歩行できているのですから、感謝の念をいずれ形にしてあらわしたいものです。カプタロウ用の高級な鯉の餌など喜んでもらえるでしょうか。ビタミンとミネラルがたっぷりのやつです。

 ロレンゾが角で動きを止めました。あ、これはいるのかと思いましたが、また前進、角を曲がります。そこは小さな電気ランプが乳白色のガラスに入って、貧しく照らす廊下なのですが、その廊下の半ば、ネオンサインがかかっています。〈三銃士〉。三人の銃士はレイピアの代わりにビールのジョッキを捧げてぶつけあっています。例の血痕はそこに続いています。

「声が複数きこえる」

 ロレンゾは舌打ちをし、右手に大ぶりのナイフ、左手に投げナイフを三本指のあいだに挟みます。

 ――そうだ! そうだ!

 ――おれ、やり、たい、ポカ!

 ――いひひひひ。

 ――つぶしちまえ! エッ! エッエッ!

 舌ったらずな酔っ払いたちの声です。ロレンゾは「ジーノよりはマシだ」とささやきました。ロレンゾはそのまま入店したので、わたしも「果たしてここでドルは通用するのだろうか」と思いながら、足ヒレの踵に隠した三ドル銀貨を命乞い用に取り出し、続きました。

 ところで五人の酔っ払いよりも恐ろしいものはなんでしょうか?

 こたえは簡単です。ひとり五役で話している酔っ払いです。

 略奪にでもあったみたいにガランとした店内、その奥のカウンタースツールに男がひとり座っていて、このひとつの口が残像が残るくらい速く動き、異なる声の酔っ払い五人の与太が流れ出しているのです。

 流れ出しているのは与太だけではありません。この男がジョッキのビールを煽ると、体じゅうに開いた穴からビールが流れ出します。そう、彼こそ、電話ボックス男。善良な潜水士を脅かすことにどんなやりがいを感じているのかは知りませんが、とりあえず、筆頭会話代行人に話させます。

「ペンドラゴンM1000について情報を持っていないか?」

 声がぴたりと止みます。怒ったのでしょうか?

 突然、ぐるっと向きを変えてきて、重くも甘い歌手みたいな声でたずねてきました。

「三八と四五。どっちが好きだい?」

 三十八と四十五? いったいどういうことでしょう。気温? なら、どっちも嫌いです。体温?なら、どっちも嫌いです。 水温? 三十八では温すぎて、四十五では熱すぎます。だいたい三十八と四十五の好感度調査よりも前に彼には自分の体に開いた穴を縫うなり貼るなりして塞ぐという重要なことがあるのに、なぜこんな質問をするのでしょう? マシンガンで体を蜂の巣にされたのにぴんぴんしていて、しかも一人五役で奇妙な会話をし、そして、人生の最重要事項を三十八と四十五の好感度調査に設定する……どう考えても普通の化け物ではありません。こちらもはたから人間とは思っていません。化け物なのは間違いありません。ただ、ジッキンゲン卿やフィリックス・エレンハイムのように友好的な化け物が存在することをいまのわたしは知っています(カムイも化け物に加えるか悩みますが、保留にしておきましょう)。

「三八と四五。どっちが好きだい?」

 また甘い声できいてきます。

「三八と四五。どっちが好きだい?」「三八と四五。どっちが好きだい?」「三八と四五。どっちが好きだい?」「三八と四五。どっちが好きだい?」「三八と四五。どっちが好きだい?」「三八と四五。どっちが好きだい?」「三八と四五。どどどどどどどどど――」

 壊れたレコードみたいに繰り返します。声がもともと歌手みたいに素晴らしいので余計にレコードっぽいです。

 どうやら、三十八と四十五のどちらかを選ばないといけないようです。わたしは会話の全てをロレンゾに委託しているので、彼に判断も任せます。

「……三十八」

 ぴたりとレコードが止まり、目が赤く光り、細かく震え始めます。

 どうやらこたえを間違えたみたいです。しかし、怯えることはありません。やっぱり四十五が好きですとこたえればいいのです。

「……じゃあ、四十五だ」

 もはや尋常ではないほど首から上が動いています。軽く残像を引くほどでしかも目の赤い光も尾を引いて、光る毛糸を頭にかぶったみたいになっています。

「十二口径(ゲージ)が一番に決まってるだろうが!」

 それまで彼の体に隠れて見えなかった右手がショットガンを握っていることに気づきました。こういうとき、ロレンゾと一緒にいると本当に頼りになります。そのショットガンの銃口が二センチと上がらないうちにロレンゾの素早い斬撃が頸、脇腹、踵を切り裂き、電話ボックス男は仰向けに倒れました。

「飛べ!」

 ロレンゾがそう叫び、カウンターの向こうへ転がります。わたしも同じ動作をしようと思いましたが、ずっと無様に、おたおたしたものになりました。きちんと述べませんでしたが、わたしとロレンゾは何かまずいものに遭遇したらすぐに水に逃げようとしてエアタンクを背負ったままなのです。かなり重いですが、ロレンゾは空気の妖精みたいに軽々と飛び越え、わたしはというと、ゴンっ、と音を立てて、レジスターのそばに落ちました。

 ショットガンの轟音がして、天井から漆喰がひと塊落ちてきました。

 マシンガンの乱射でも死ななかった電話ボックス男。肉屋も嫉妬する見事な切り裂き攻撃も効かないとなると、大砲を探さなければいけません。しかし、それはロレンゾにとって、自身の暗殺術の敗北を認めることになるので、心苦しいことでしょう。だから、ロレンゾが身を低くしたまま、左右に動きまわり、カウンターから奇襲的に(またはもぐらたたき的に)顔を出して、ナイフを投げ続けることの不毛も致し方ないのです。

 ペンドラゴンM1000への道は遠く険しく、硝煙のにおい濃く。そんなことを思っていたら、目の前の板が飛び散って、大きな穴が開きました。

「おれは成功してやる。いいか、こら? せ、い、こ、う。成功してやるんだ、このマザーファッカーな十二ゲージと一緒にな!」

 これに素早く動く唇が紡ぎ出す「そうだそうだ!」や「エッ! エッ!」の声も同時に飛び出しています。穴から少しだけ電話ボックス男を見ると、ナイフが全身に刺さって、待ち針を打たれたコットンみたいになっていました。電話ボックス男あらため待ち針人間です。ロレンゾも最後の一本――それはバーベキュー用の鉄串を短くしたものでした――を手に身を低くしています。

「これが通用しなければ終わりだ」

 不滅の男ロレンゾが弱音を吐きました。ジーノのもたらしたトラブル以外では弱音を吐かない彼が言うのです。事態は切迫しています。ここは最後の一本を大事に使うのかと思ったら、彼は弱音を吐き終わらないうちにさっと立ち上がり、最後の一本を投げ、またしゃがみました。ですが、相手は生きています。シャキンという、あのショットガンの次弾を送り込む音がして、それから轟音。そして、断末魔。

「ぎゃあああああああ!」

 品のない断末魔ですが、わたしがあげたものではありません。断末魔の叫びすらあげられるか怪しいほどの無口なのがわたしなのです。ロレンゾでもありません。顔は隠れても凛とした両目が光り、そして、ぽそりと「やはりな」と言いました。どうやらあの弱音を吐いたとき、彼には勝算が見えかけていたようです。

 タンクが重いのと、やっぱり復活するかもしれないのとでビクビクしながら、そろそろと立ち上がると、電話ボックス男あらため待ち針人間が大の字に倒れていました。ただし、右腕の肘から先がショットガンと一緒に消えています。ロレンゾは天井を指差しました。男の腕が破壊されたショットガンを手に持ったまま水道管に引っかかってぶらぶらしています。ロレンゾは男の額に刺さったナイフを抜いて、真上に放ち、腕はショットガンを手に握ったまま落ちてきました。

 種明かしすれば、ロレンゾは最後の一本をショットガンの銃口へと投げたのです。そのため、電話ボックス男あらため待ち針人間が発砲したときに弾が暴発して、この化け物は腕を失い、全身に散弾を浴びたわけです。

 ――あれ? でも、マシンガンで蜂の巣にされ、ロレンゾの投げナイフで待ち針人間になり、それでも平気でいた化け物がたった一発の散弾の暴発で死ぬなんてあり得ることでしょうか?

 こたえは銃身が裂けてアサガオみたいになったショットガンにありました。男の手は溶けたチーズみたいになって銃の握る部分と融合していました。

 これが手品のタネ――電話ボックスごと蜂の巣にされても死なず、ロレンゾのナイフで待ち針を刺したコットンみたいになっても死ななかった真相です。

 銃です。銃が彼の本体だったのです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ