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ヘンリー・ギフトレスと沈みゆく市街  作者: 実茂 譲
ヘンリー・ギフトレスとペンドラゴンの財宝
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 新しいウェットスーツはこの三日間で、すっかりぴったり体に馴染みました。腕をまわすのが前よりもずっと簡単になり、水流の微妙な変化を肌で感じることができます。それに取り扱い説明書によれば、このウェットスーツには防弾材が編みこまれているので、三十八口径の至近距離発砲くらいなら防ぐことができるということです。ジッキンゲン卿の鎧ほどではありませんが、防御力が上がったわけです。有用な投資が明日の生還を生む。もちろん、営業利益もです。昨日は八ドル五十セントでしたが、おとといと今日は十一ドル、十四ドル十セント。

 毎日の手入れを欠かさず、大切に使えば、潜水具はきちんと結果を出してくれます。愛いものです。突然爆発するレンジやハンドルがすっぽ抜ける自動車などを見ると、工業製品の稚拙化は目を覆うばかりです。

「うむ! 同志ギフトレスの言う通りだ。正確には書いた通りか」

 昼過ぎに家に戻るとタチアナ女史が乾燥野菜のスープとアンチョビの昼食を終えるところでした。ちょっと見てもらいたいものがあると言われて、連れてこられたのは商業地区のシンメルフェニッヒ通りにある画廊でした。

 ふむ。意外です。タチアナ女史はある種の文化を認めません。つまり、世間一般で高尚と呼ばれる音楽や彫刻は全て怠け癖がついたブルジョワのお遊びであり、きびきび働くプロレタリアートの世界には不要であるというわけです。

 その一方でわたしというプロレタリアートはそういう彫刻のサルベージで大いに儲けさせてもらったことがあるのですが(もちろんタチアナ女史には内緒です)。

 タチアナ女史の攻撃対象は絵画にまで及びます。

「ブランコに乗った貴族の娘とか神さまと蛇が取っ組み合ったりとか、そういう絵には何の意味もない!」

 以前、演説で、そんなふうに豪語したのをききました。

 だから、画廊に来てほしいと言われたときは、頭のなかがクエスチョンマークだらけになりました。まさか、火炎瓶を投げ込む気じゃないだろなと思い、共犯にされて何万ドルと言う負債を抱えさせられる前に逃げようと思いつつ画廊に引きずり込まれると、そこまで広くもない店内に隙間なく絵がかかっていました。

 その絵なのですが、みんな同じ絵です。いえ、描いた人は違うだろうし、描いた時期も違うのでしょうが、どれもみな小麦畑とトラクターと笑顔の少女が描かれています。少女たちはみな赤いスカーフを頭に巻いていて、トラクターを運転しています。トラクターを運転するのが楽しくてしょうがないみたいな顔は小麦色で健康そうです。彼女にとって、小麦の収穫期にコンバインではなくトラクターを運転して、小麦を薙ぎ倒しているなどはどうでもいい些末なことのようです。

 しかし、本当に同じ絵しかありません。小麦畑、トラクター、少女。曲線が一本も使われない角ばった絵や赤と黄色以外の色を使わないなどの個性を求めた絵もありますが、モチーフの単調さに救われません。

 タチアナ女史の言うところ、革命成功後、その政体を維持し発展させる鍵はトラクターにあるようです。トラクターさえあれば、どんどん畑が増やせる、畑が増えれば食べ物に困らないし、もっともっと機械を使えば、少ない人数で農産物を確保できる。余った人間はトラクター工場にまわす。トラクターがさらに出来上がり、さらにトラクターが使われて、人が余る。余った人間はトラクター工場にまわして、と、この永遠のサイクルが繰り返されるのですが、これを突き詰めると、世界はトラクターだらけになってしまいます。

 まあ、わたしは口はきかないので、そのことについてタチアナ女史の夢を壊すようなことはしません。彼女はわたしが、レギュレーターや呼吸マスクを大切にするみたいに、全ての人民がトラクターを大切にすれば、この天国は割とすぐにやってくると思っているのでした。革命的画廊にはトラクターの絵しかない、という、普通に生きていたら分からなかったであろう豆知識をもらって、では、帰ろうとしたとき、タチアナ女史が自分の人差し指で×をつくりました。

 革命組織の秘密の挨拶でしょうか? わたしは保守であれ革命であれ、政治に足を突っ込みたくありません。政治とは嘘をつくことであり、嘘をつくとはしゃべることです。わたしは政治向きにできていないのです。

「ふふっ。同志ギフトレス。きみがくれたアドバイスは潜水艦建造に役立っている」

 ああ、口の前で×をつくる『わたしはしゃべりたくないです』のサインのことですか。あんな意思表示サインでも工業製品建造に貢献できるのでしたら、何度でもやりましょう。

「だから、お礼をしたい。この店の絵のなかから一枚持っていってほしい」

 どれか一枚、とはいっても、みな収穫期の小麦をトラクターで薙ぎ倒している女の子の絵です。いりませんと首を振りましたが、タチアナ女史はあげるといって、ききません。そこで持ち帰るのに疲れない、一番小さな絵を選びました。トラクターが小麦を虐殺し、その運転席にはミカ嬢が大好きなお薬をキメたらしい女の子が、ほとんど白目で、口の両端を上に引っぱったまま、トラクターを運転しています。畑は地平の彼方まで続き、そこには(この絵で唯一うらやましいと思える)青い空がありました。

「そんな小さなものでよいのか?」

 わたしは、こくこくうなずきました。

 その絵は居間に飾りましたが、誰も気づきませんでした。絵が小さすぎて、少し遠くから見たら、ただの油絵具のぐちゃぐちゃにしか見えないのです。仕方ありません。当のタチアナ女史でさえ、わたしに絵をくれたことをすっかり忘れて、ブルジョワ趣味の抽象画だと思っていたのですから。

 翌朝、朝ごはんを食べ終わり、潜水具の入った大きな袋を持ち上げようとしていると、既に潜水姿のエレンハイム嬢が一度出た玄関で立ち止まり、

「ヘンリー! お客さんだよ!」

 と、言ってきました。

 誰だろう?と思って、下まで降りていくと、頬のこけた顎髭の男がいました。筆頭会話代行人のエレンハイム嬢はもう足ヒレを履いた足でペタペタ歩いて、潜りに行ってしまったようです。誰だろう?と思って、降りてきたのですが、誰だろう?は解消されませんでした。本当に、いったい、どこの誰だろう?

 男はみすぼらしい背広の胸につけられた金属片を指で叩きます。楕円形でギザギザに縁取られていて、中央には細かすぎてよく分からない模様があります。男の言葉を一切使わないで意思疎通を図るスタイルに少し感動したわたしはそのバッジが『おしゃべり弾劾党』の党員バッジかもしれない、わたしの知らないところで設立されたスバラシイ組織の勧誘かもしれないと思い、男に導かれるまま、自動車に乗りました。

 古い幌付きの自動車には山高帽をかぶった運転手がいて、顎髭はわたしを後ろの席にのせて、じぶんは助手席に乗ると、自分の帽子のツバを指で弾いて、自動車を発車させました。惚れ惚れするサインの利用です。わたしは秘密組織の入会儀式はどんなものだろうと考えていると、自動車が止まりました。顎髭がまた出かけていき、連れて戻ったのは念入りにボディチェックを受けた丸腰のイルミニウスでした。

「おや、ギフトレスさん。こんにちは」

 イルミニウスが『おしゃべり弾劾党』に何の用でしょう? 大聖堂の蟹に食べられた天使ほど言葉は使わない彼ですが、それでもひと月に二回くらいは信徒に向けて説教をします。

 だんだん不安になってきました。先ほどはそう思いませんでしたが、おしゃべり弾劾党なる組織をボトル・シティで設立するなら、わたしにまず声をかけるはずです。市内でわたしがおしゃべりを嫌っていることは市内のみなが知っています。

 ひとつ、またひとつと疑いや矛盾がわたしの軽率さをなじり、お前、熊の口に自分から飛び込んだのとちゃうか?と質問してきました。

 ――でも、ふたりともしゃべりませんよ。

 ――あほ。顎髭の下、見えんかったんか?

 ――見てないです。

 ――耳から耳まで切り裂かれた痕があったやん。

 ――え? じゃあ……。

 ――イルミニウスと自分に恨みを持っとるやつ、誰だっけか? あ?

 ああ、今、わたしのなかの〈疑いと矛盾〉が教えてくれました。あの自警団です。バッジは自警団のバッジだったのです。

 運転手がバックミラーの向きを少し手でなおします。

 そして、助手席の顎髭が突然振り返り、銃をわたしに向けました。発砲があり、ガラスに穴が開きました。わたしの頭が吹き飛ばなかったのはイルミニウスが銃に飛びつき、つかんでくれたからです。わたしも慌てて、銃に飛びつきます。ひとり対ふたりの押し合いで、銃口はだんだんわたしから離れていき、また発砲。今度は命中しました。運転手の頭に。フロントガラスには脳漿でグジョグジョになった山高帽のフェルトがべったり貼りつけられ、死体はハンドルに倒れて、車は急に曲がりだします。まるでバスの運転手が外のステップにしがみついた子どもを払い落すような乱暴な運転が始まりました。死体の足がアクセルペダルを踏みっぱなしで、体が傾くたびに、水没した建物同士をつなぐ、欄干のない橋の上で左に右にと曲がりまくります。

 いまや、わたしとイルミニウス、それに顎髭自警団員の命を握っているのは額から上に深くて大きな溝ができた一個の死骸です。ハンドルに伏したまま左右にゆれ、アクセルペダルを踏みっぱなしの足が我々の死亡率を高め、死してなお、我々を脅かします。

 顎髭と銃をつかった綱引きモドキはまだ続いています。車ごと水にざぶんして、全員死ぬ可能性があるのにわたしたち卑小な人類は武器の奪い合いに終始しています。なにか寓意的なものを感じますが、そういう考えはもちろん助かってからふけるべきです。

 この自動車でまともな人間はわたしだけです。助かってから考えると言いましたが、しかし、ちょっといま、述べておきましょう。ある星に三人の人間がいます。それが最後の人類です。つい、このあいだまでは四人でしたが、不幸な事故で亡くなりました。その悪霊が我々最後の人類を破滅させるべく、星を宇宙の海のなかに叩き落そうとしています。最後の人類三人のうち、ひとりは善良な潜水士です。言葉であれ肉体的であれ、誰も傷つけず、誰も損なわず、ただ、平和に潜り、生きていきたいと思っています。ふたり目は邪悪な男です。自分のことを治安を司る神さまか何かだと思っていて、他のふたりを殺してしまおうとしています。彼から見て、わたしともうひとりは邪な意志を持って、治安の紊乱を企む不平分子なのです。そして、最後のひとりは聖職者です。迷える命が救われることを神に祈ることを生業とする少年で、彼はずっと祈祷の文句をつぶやいています。

「アイバー・アンド・ジョンソン、四五口径、ダブル・アクション・リヴォルヴァー、パテント取得一八七九年。アイバー・アンド・ジョンソン、四五口径、ダブル・アクション・リヴォルヴァー、パテント取得一八七九年。アイバー・アンド・ジョンソン、四五口径――」

 まともな人間はわたしだけです。まともであるがゆえに考えつきもします。わたしは銃の取り合いをイルミニウスに任せて、運転手の座席へ必死に体を伸ばします。わたしが何とかハンドルの下に潜り込み、ブレーキペダルを踏めばいいのです。こういうとき、マスクは少々不利です。切羽詰まるとうまく空気が吸い込めない気がして、頭がクラクラするのです。しかし、生存のため、何としても運転席への遠征を成功させねばなりません。死体とレバーをつかんで、何とかハンドルの下に我が身を入れると、靴底が剥がれかけた靴が痙攣で突っ張ってアクセルペダルを踏んでいます。その隣にゴムを引いた大きな四角いブレーキペダルがありました。この車がつくられた当時では新しかったであろうゴム引き加工は咄嗟に踏んだとき、足が滑ったりしないようにという製作者の命を大切にする意図がありました。まさか走行中に手で押し込もうとする人間がいるとは考えなかったでしょう。ゴム引きされたペダルは滑ることなく、わたしがいつもしている薄手のフェルトの手袋をしっかり止めて、グッと押し込むことができました。

 タイヤがアスファルトとこすれる、甲高い悲鳴がきこえ、次に車の上半分が消えました。見えない巨人に握りつぶされるような音を残してです。わたしはここから抜け出そうとして、もぞもぞ後部座席に戻り、あると思っていたドアがなくて、足が空でバタつきましたが、無事、自動車から抜け出すことができました。

 思った通り、上半分がなくなっています。運転手の死体はまだ車のなかにありますが、顎髭はいません。どうも、わたしたちの車は大きなトラックの下を潜り込んで通過したようです。トラックのそばにはねじれた肉塊が転がっています。イルミニウスは無事で返り血で服が汚れたくらいで済んだようです。なんと、わたしたちは新港湾地区の南の端まで来ていました。よく途中で事故を起こして死ななかったものです。イルミニウスは顎髭の銃を手のひらでなでながら、アイバー・アンド・ジョンソン社の有名ではないが、いい仕事をし、頑丈な銃を生み出す技術力を誉めていました。

 一刻もはやくこの場から離れないといけません。わたしとイルミニウスは精肉工場の労働者たちが大声をあげるなか、さっさと北へ向かいます。自動車の下半分がメラメラ燃えだしていて、ゴムタイヤの焼ける嫌なにおいがわたしたちのところまで届きました。ボトル・シティ市民は事故から教訓を得ようとするより先に略奪に走る可愛らしい本能がありました。燃えているタイヤだって、バラバラに刻めば、何かの役に立ちますし、裂けた幌はレンジに火を入れるときに使えます。何人かはトラックの下に転がる肉塊を囲んでじっと眺めていましたが、どうか最低限の道徳を遵守してもらいたいものです。

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